れない。」
 岡部は顔色をかえた。坪井はそれを見つめた。抗弁を許さない眼色だった。
「君は何か……誤解してやしないか。」と岡部は呟いていた。「僕は何もしやしない。ただ……あのひとが来るというもんだから……余計なことだとは思ったが……。一体どうしたんだ……。」
「分ってるよ。君の意味はよく分ってる。僕はいま一人でいたいんだ。帰ってくれ。」
 その気合が、殆んど腕力だった。だが彼の身体は硬直していた。岡部に身体ごとぶつかっていって、外に送りだした。
 彼は両腕を差上げて、大きく伸びをした。その様子を、帳場の上り口からみよ子が眺めて、とんきょうな眼付をして首をすくめた。彼はそれをつかまえて、いきなり抱き上げた。彼女は大きな甲高い声を立てた。身体をもがき、足をばったつかせ、笑いたてながら、両手で坪井の髪の毛を掴んだ。坪井はそれを抱きかかえて、土間を歩き廻った。みよ子は笑い疲れて、ぐったりとなった。坪井の頸にかじりついて、顔をかくしてしまった。坪井は涙ぐんだ眼で、見廻した。お幾が呆気にとられた顔をしていた。島村と村尾とが二階からおりてきて、お幾の後につっ立っていた。
「さあ、こんどは島村さんにおんぶしてみるんだ。」
 坪井はみよ子を皆の前にほうりだした。みよ子は真赤になって逃げていった。その後ろ姿に、坪井の梟のような眼が濡れたまま笑いかけていた。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
   1934(昭和9)年2月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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