はどうなの。それに比べれば、あたしのことなんか、何でもないじゃないの。」
 そしてあなたは煙草をくゆらしながら朗かに笑っていた。それはもう、鎌倉山より以前のあなただった。あなたがそんなにたやすく、現在の自分をふみにじって昔に逆戻りが出来ようとは、考えただけでも私は情けなくなった。而もあなたは、みますの娘のみよ子と私のことを、本気でそう信じたのか。其後私がいろいろときき出し得たところでも、あなたは確実なことは少しも知っていなかった。「今からあの娘のパトロンになって、そして芸者につきだそうというのは、坪井君もなかなか利口ですよ。」そういう岡部の言葉を、あなたはどういう根拠で信じたのか、あなた自身にも分ってはいない。岡部はやはり、ほんとに親切な調子で、あなたのことを思って、そう云ったのであろう。それは私にもよく分る。そしてその、坪井君もなかなか利口ですよという平凡な言葉が、私の胸を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]以上に、あなたの胸を刺した[#「刺した」は底本では「剌した」]ろうこともよく分る。けれども、それは単に言葉にすぎないし、岡部の誤った言葉に過ぎなかった。
「みます」のことも、私にとっては、そんなつまらない事柄ではなかった。七年間の上海でのうらぶれた生活のあとで、東京にまい戻ってきた時、私がふれた一番深い感情は、みますの娘のみよ子のうちにあった。以前東京で遊蕩の生活をしていた時、花柳界のそばのその小料理店みますへ、私は度々出入した。芸者などつれて、昼飯をたべにいったり、夜遅く腹拵えにいったりした。みよ子は小学校にあがったばかりの子供で、私たちは玩具や文房具などを持っていってやった。そのことを私は思い出したのである。もう花柳界に足を入れる興味など更になかったが、へんにみますのことは思い出されて、一寸飲みに行ってみた。まだ夕方には間のある明るいうちで、他に客はなかった。お幾も料理番も店の有様も、以前と変りはなかった。そして私たちが、そういう場所にありがちな事もなげな気安さで、七年間の年月をとびこして話をしてると、帳場の障子蔭から顔をだしてじっと私の方を眺めてる日本髪の少女があった。私が見返していると、その眼がしずかに涙ぐんで、美しくぱっとまばたきをした。それがみよ子だった。背丈がぐっとのびて、子供のままの顔に、眼だけが大人になりかかっていた。お幾に呼ばれて出てきたが
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