ぐらいなものは上海にもあってよかろうと、甚だ謙遜な要求をもなすまい。玄武湖から見る南京城壁の美観はともかく、多少の城壁ぐらいは上海にもあってよかろうと、つまらぬ要求をもなすまい。実は上海には何もなくても、人をその市内に繋ぎ止める。この自然の美も名所旧跡もない上海へ数日の旅から戻って来て、私は何となく一種の郷里へ戻ったような安易さを覚えた。
 何故であろうか。昔はそれぞれ王城の都たりし杭州でも蘇州でも南京でも、その夥しい名所旧跡や美景にも拘らず、今では、文化的に、上海に比ぶれば田舎町の感じがするからである。そして上海にこそ、語感が互に通じ合い親しく語り合うことが出来そうな未知の友人が数多くいそうな感じがするからである。
 然るに、ああ然るに、上海は前述のような文化的孤島の現状であり、そこの文化人は前述のような状態であるとするならば、その上なお、東洋文化を軽蔑圧迫せんとする或種の気風が其処に巣喰っているとするならば、如何にしてこれを新たに明朗に建て直すべきであろうか。
 上海は、租界なるものがあるために、パスポートなくして上陸出来る恐らくは世界で唯一の海港であろう。このために思わぬ功徳をなすこともある。ナチ・ドイツから逐われたユダヤ人で、上海に逃げこんで来てる者が既に一万八千人ある。うち一万一千は日本警備地区の楊樹浦辺に住んでいる。多少の財産ある者はいろいろな商売を始めていて、その一つのバー・タバリンは相当名を知られており、酒は粗末だが、気易いダンスが行われ、主人は頭の禿げた愛嬌者で、興至れば自ら歌い且つ踊って見せる。けれども二千二百は全くの窮民で、幾団かに分れて共同生活をし、炊出しの救済を受けている。この救済費用がアメリカから来ると聞いて、私は云うべき言葉を知らなかった。だがこのユダヤ人問題の衝に当ってるI氏は、彼等の国有の伝統的生活を立派に営ませてやるつもりだと断言された。ただ、目下救済を受けてる人々のうち、青年や壮年の者までが多くぶらぶら遊んでいるのは奇異の感を懐かせる。彼等はみな相当の知識人で、労働には適せず、適当な仕事を待っているのだそうであるが、いつそれが与えられるようになるであろうか。
 海からはパスポートなしに上陸されるが、上海の上空は一層無防禦で各種のラジオ放送が自由に流れこんでくる。そしてここに、奇怪な放送戦が展開されている。互に妨害し合いまた進出し合っているらしいが、或る処で偶然聞いた重慶からの放送には、盛んに日本軍敗退のデマが飛ばされ損害其他詳しい説明までなされていた。このうち、日本語のもの二回あったが男声のは明かに内地人の声ではなかったけれど、女声のはその抑揚から音調に至るまで清澄な東京弁であった。ただその声に一種悲痛な胸迫るものあるのが感ぜられたのは、強制的に放送をさせられてるとの予想の下に、祖国につながる女性の血を想いやる憐愍の情からの故であったのであろうか否か。
 これら種々のことは容易に頭の中でも整理がつかない。Y君が紹介してくれた街の伊達者某君は、瀟洒な華奢な青年だが、恐らくは百数十名にのぼる支那人の子分たちを駆使しながら、華かなまた闇黒な巷を闊歩している。私は彼に或る世話になったが、次で彼の姿を求めようとすれば、もはや彼は何処かへ没し去って、捉えん術もなかった。私は一人街路を彷徨し、好きな老酒を飲みながら、額を押えて中国人の未知の友のことなどを考え耽るばかりであった。
 その老酒の、六十二年たったという秘蔵の珍品を、ふとしたことから私はさる料理店主から一瓶分入手して、ホテルの卓上に据えていたところへ、丁度三木清君が上海にやって来た。私達三人は三木君を拉して、南京料理屋へ赴き、六十二年の老酒の杯を挙げ、私はなお足りずに、そこの老酒をしたたか飲み、随分と酔ってしまった。上海の未知の友には逢えなかったが、日本の友に会したのが嬉しかったのである。
 茲に私事をつけ加えれば、私達三人というのは、上海行を共にした加藤武雄君と谷川徹三君と筆者とのことである。谷川君は各種の調査や骨董あさりに疲れながら、上海の騒音が睡眠の妨害をなすことに不平ばかり云っており、加藤君は唐詩選の中などの愛詩を口ずさみながら、目覚むるばかりの美人に逢えない不運をかこっており、私はただ何にも分らず老酒に酔ってばかりいて、両君に迷惑をかけはしなかったかを今では恐れるのである……とこう書いてしまえば、三人とも甚だ怪しからぬ者のようにも聞えるだろうが、これはただ愛嬌で、実は相当に働きもしたのである。
 そこで、この一文を上海の渋面とする所以は、上海の各方面を大急ぎで駈け廻って、さてそれで上海の顔貌を組立ててみると、そこに一種の渋面が出来上るからである。その渋面のなかにぽつりと、印度人警官の姿が浮んでくる。黒い長髭にかこまれ、頭にターバンを巻
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング