ければなるまいし、或は蘇州河以南の租界地域が政治的に清掃されるのを俟たなければなるまいが、更に根本に於ては、強力な新思想が表明され確立されるのを俟たなければなるまい。そしてさし当っては、上海にある少数の少壮能才に対して強い援助協力の手を差伸べてやり、将来に対する彼等の希望を輝かしいものにしてやらなければなるまい。
彼等の多くは、共産抗日の波濤をくぐりぬけて、漸く頭を水面上に持挙げたばかりのところである。そして彼等の眼には何が映ずるであろうか。
蘇州河は、重慶政府のテロから身を護るためには、越え難い一種の境界であろう。バンドに立並ぶ高層建築は、欧米勢力の重圧と感ぜられるであろう。それに対抗すべき淅江財閥の富は、主人公の逃避と共に活動を停止してるものが多かろう。ジョッフル街のうまい菓子や珈琲は食べ得ても、たまに麗都やシロスやハリウッドなどにはいりこめば、そこの一流美人のダンサーは他国人とばかり踊っていて、却ってこちらが異邦人の感があるだろうし、キャバレーの美酒も何となく舌ざわり悪い感があるだろう。幼な心には馴染のありそうな新世界や、大世界も、今ではもう俗悪極まるものに思えるだろうし、南京路の各百貨店の娯楽場も同じく俗悪に思えるだろう。そして周囲は、精神的に一種の感覚遅鈍な大衆の群れである。斯くて彼等の胸には、文化的「孤島」上海の感が響いて来るに違いない。
ただ、上海では料理や酒はうまい。北京、四川、広東、杭州、蘇州、楊州、南京、其他、本場の第一流のものに劣らぬ料理があるし、鍋のなかに煙筒を立てる回教料理もあるし、フランスやイタリアの本式な料理もあれば、日本のテンプラやスキヤキの上等もある。日本酒や洋酒は質が劣ってきたが、紹興本場の美事な老酒は豊富にある。ただそれらも、一時の旅客の財布がこれをもちこたえ得るだけで、上海インテリの小さな財布ではなかなか対抗し難い。店頭にぶら下っている家鴨や豚の内臓などでも、日常の用にはなし難い。金を得んがためにも、賭博場にはなかなかはいりかねるし、土曜日曜の草競馬や、カニドロームや、ハイアライや、ビンゴーや、詩文会などでも、賭ければ損をするにきまっている。それにまた、多欲的生活はもう禁物である。それに対抗するだけの精神力は充分に出来ている。婦人達でさえも、「慈倹婦女」のグループなどは、新生活運動に乗り出しているのだ。
ただ「孤島」に
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