て、すぐに出て行きました。そのあと一層ひっそりとしました。秋の夜風が軽く然し冷かに、駅内を通りぬけてゆきました。
 時間が、一分一秒はひどく緩かに、全体としては思いのほか速く、過ぎてゆきました。八時すぎの上り列車はもう通過してしまいました。
 明朝……ということが、たいへん遠い夢のようでありました。
 八重子は腰掛の上に身動きもせず、繻子のコートにくるまって、眼をつぶり、眩いに似た感じに浸りました。
 下りの列車が通りました。八重子はただ薄眼をあけてみただけでした。数名の人が降りていったようでした。
 八重子はまた眼をつぶりました。
 軽く、桐の吾妻下駄らしい音が、八重子の前に止りました。
「あの……失礼ではございますが……。」
 まっ黒な七分身のコートに、細そりと背高い体をつつんで、肩から垂らした臙脂色のショールの端にハンドバッグを持ち添えた、丸顔の若い女が、小首を傾げていました。
「部隊から、面会のお帰りではございませんでしょうか。」
 あたりを憚るような低い声でした。
 八重子は顔を挙げました。ひたと見つめてる大きな眼付にぶつかりました。その大きな眼付の無表情とも言えるぶしつけな平静さが、八重子を夢の中のような気持にさせました。八重子も低い声で答えました。
「はあ、左様でございますが……。」
「もしも、宿にお困りのようでございましたら、お粗末なところではありますけれど、どうにかお休みにだけはなれますから、おいで下さいませんか。」
 八重子はなんとなしに立ち上って、お辞儀をしました。
「ほんとに困りぬいていたところでございます。帰りの汽車の切符が買えなかったものですから。」
「いつも、朝のうちに売りきれてしまうんでございますよ。」
 七分コートの女は、ゆっくりと駅を出てゆきました。八重子もそれについて行きました。
 町筋を通りぬけ、街道から細道へ折れこみました。いつのまに取り出されたのか懐中電灯の光りが、ちらちらと、足許をてらしました。相手の女の足袋の白さが、八重子には、眼にしみるように思われました。
「道がわるうございますよ。」
 ゆるい下り坂になって、女はふり返りましたが、にこりともしない無表情でした。小石交りの道なのに、その吾妻下駄の音も殆んどしませんでした。ただ、冷たい夜風に乗って漂う仄かな香水の香りだけが、八重子には、人間らしい頼りでした。
 生垣があ
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