めておりましたが、溜息のように言いました。
「このひとが、あの、沼のほとりのひとですよ。」
「まあ……夢の中のようなお話の、あのひと……。」
 二人は顔を見合せました。
「高次さんの戦死のこと、知ってますかしら。」と清子は言いました。
「訪ねてみましょう。」と八重子は言いました。
 そして数日後、二人はひそかに打ち合せて、二人だけの秘密を胸に懐いてる思いに軽く昂奮して、出かけました。
 秋晴れのよいお天気で、冷かな微風も却って快く思われました。
 八重子はわざわざ、あの時と同じ服装をしていました。清子はなるべく目立たぬ服装をしていました。
 駅から街道沿いの町筋、そこまではよく分りましたが、その先が、八重子の記憶にはすっかりぼやけていました。往きは暗い夜の中をあの女に導かれ、帰りは霧の中を少女に導かれて、まるで夢の中のようだったのです。
 同じような小道が幾つもあり、同じような生垣や家が幾つもありました。
 傾斜面のつきるところ、びっくりするほどの近くに、広々とした沼があって、日の光に輝いていました。そこから、冷たい風が吹きあげてきました。藪の茂みがそよぎ、中空高い落葉樹の小枝が震えました。薄の穂がまばらに突き立ってる野原が、あちこちにありました。
 肌寒い思いで、草履の足を引きずって、尋ねあるきましたが、それらしい家は見当りませんでした。
「たしかにこの辺でしたの。」
「そう思いますけど……。」
 心許ない短い問答きりで、二人はあまり口を利きませんでした。
 人の住んでいそうもない、静まり返った家ばかりで、通りがかりの人影も見えませんでした。
 二人は町筋に引き返しました。荒物屋、煙草屋、それから蕎麦屋と、三軒に尋ねてみました――。小川加代子というひと、歌沢の師匠をしている寅香というひと、少女を使って静かに住んでる若い女のひと……。
 それを、どこでも、誰も、一向に知りませんでした。こんな田舎では、どんな些細なことでも皆に知れ渡ってる筈なのに、彼女のことについては、何の手懸りもありませんでした。
「おかしいわね。」
「ほんとに……。」
 二人はまた、ぼんやり沼の方へ行ってみました。そして水際まで降りてゆきました。冷たい風が、間をおいて、水面を渡ってきますきりで、人影も物音もなく、小鳥の声さえ聞えませんでした。
「どうしたんでしょうね。」
 と八重子は呟きました。

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