達の話をかぎつけようとしてるんだい。今日ばかりはもう白状しないとこのままには置かないから、そう思うがいい。」
「俺は何も知らないんだい。もう之からしないからよう……。」
と庄吉は泣声を立てた。
「何だと、まだ図々しい口を利きやがって……。」
金さんは酒に酔っぱらってどろんとした眼でじっと見ていた。堅吉と繁とは片隅に小さくなって坐っていた。緊張した時間が一瞬間続いた。
小母さんはいきなり火鉢から沸立っている鉄瓶を取り上げた。
「この餓鬼野郎いわなけりゃあこうしてやるぞ。」
熱湯が一滴庄吉の首筋に垂らされた。庄吉は心臓の底までびくりと震えた。
再び熱湯が垂らされようとする時、庄吉はがばとはね起きた。そしていきなり鉄瓶を小母さんの顔に叩きつけてやった。
あッ! といって小母さんは倒れた。
「何だ?」と金さんも立ち上った。
庄吉は身を交わして裏口から走り出た。
庄吉はただむやみと駆け続けた。赤い灯がちらちらと彼の眼に映じた。そしてそれが益々彼の心を向うへ向うへと追い立てた。然しいつしか彼は呼吸が苦しくなり足が疲れて、今にも倒れそうになった。立ち留ると誰も彼を追っかけて来る者もなかった。彼は夢を見てるような心地でぽかんと立っていた。
何時のまにか彼のまわりに大勢の人が集った。皆が遠くから彼をとりまいてじろじろとその姿を眺めた。それに気がつくと、彼は急にわあっと大きい声を立てて泣き出した。
「どうしたんだ?」と誰かが云った。
誰もそれに答える者はなかった。小さい囁きが人々の間に交わされた。
「何だ? 何だ?」と云って職人体の人が中に入って来た。「どうしたんだ?」
その男は何の答えもないので、ぐるりと群集を見廻した。それから庄吉の側に寄っていった。
「どうしたんだい。」
庄吉は何とも答えなかった。
「泣いていたって分らないじゃねえか。ほんとに仕様がねえなあ。……一体お前の家は何処だい。」
「白山。」と庄吉は低い声で答えた。
「白山だって、なに遠かあないじゃねえか。どうしてこんな所に立ってるんだい。帰りな。さあ早く帰りなったら。」
庄吉は泣き声を止めたが、それでもじっと立ったまま動かなかった。
「ほんとに仕様がねえなあ。」とその男は云ったままじっと庄吉の姿を眺めた。
「大方泥ちゃんでもやって追ん出されたんだろうよ。」と何処かの主婦《かみ》さんが云った。
それでまたまわりの群集のうちに方々で囁き声が起った。
そのすぐ前の炭屋から一人の男が出て来た。
「おいそんな所に立ってちゃ物騒でいけないじゃねえか。さあこれをやるから芋でも食って帰るがいい。……何だ下駄を手に下げているじゃねえか。下駄でもはきなよ。」
庄吉はその時まで片手に緊《しか》と下駄を握っていた。家を出る時、自分でも知らないで下駄を持って来たものと見える。
彼は黙っていわるるままに下駄をはいた。そしてその男の差出した白銅を一枚手に取った。それからそのまま歩き出した。
大勢の者が彼の後からぞろぞろついて来たが、やがてそれも一人二人ずつ無くなってしまった。庄吉は妙にぼんやりして歩いていたが、とある焼芋屋に入《はい》って、貰った白銅で焼芋を買った。そしてその袋から三つばかり大きいのを手に取って、残りは其処に捨ててしまった。お主婦《かみ》さんはじろじろ彼の後姿を見送った。
庄吉は温い焼芋をかじりながら、歩いていた。それはまだ彼が一度も通ったことのない狭い裏通りであった。通り過ぎる人が彼の姿をじっと眺めていった。そのうちに冷たい雨がぽつりぽつりと落ちて来た。
彼は妙にぼんやりしていた。頭の中に何かが働きを止めたような気持であった。明るい大通りを通ったり、うす暗い横町を通ったりした。そして小母さんの顔に沸き立った鉄瓶をぶっつけたことと、金さんが恐ろしい声をして立ち上ったこととを、きれぎれに思い出した。そして妙に心が何物かに脅かされてただむやみに歩くのを余儀なくされた。
「おいおい、」と云って巡査に一度呼び留められた。
「何所へ行くんだ。」
「白山。」と彼は答えた。
「お前の家は何だ。」
その時庄吉の心に棟梁の顔が浮んだ。「大留《だいとめ》」と彼はいった。
「大留と云うのは大工か。」
庄吉はもう何も答えないで、巡査の顔を見守った。
「よし早く行け。……白山はそっちじゃない。」
巡査は彼が道に迷ったとでも思ったのか、右へ行って左へ行って何処を曲るんだというように委しく白山への途筋を教えてくれた。
然し庄吉は教えられた方へは行かなかった。彼は少しでも土地の低い方へ低い方へと歩いて行った。丁度低きにつく水の流るるようなものであった。彼はただ低い方へ流れていった。そして街路《まち》を通る人達は皆彼と反対の方向へ行く者のように彼には思えた。雨の中を、傘をさして通る人
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