そうである。
 其処へN夫人がやってきた。セルの着物に小紋の絽の羽織を引っかけて、散歩ついでという様子だった。私達はそれぞれ紹介された。私は何だか夫人に見覚えがあるような気もしたが、はっきり思い出せないので、「初めまして」と挨拶をして、丁寧に頭を下げておいた。
 やがて私は、初対面のN夫人が加わったために、妙につまらなくなって、いつしか会話の圏外に出て、立ち上って庭の入口に出た。そして煙草を吹かしてると、N夫人は私の方へやって来た。
「いつぞやお目にかかったことがあるようでございますが。」と彼女は落付いた微笑を浮べながら云った。
「そうでしたかしら……。」
 私は振向いて彼女を眺めた。それから、襟元の黒子《ほくろ》が眼についた。彼女だったのだ……あのみさ子は。
 私は惘然として言葉もなく立竦んだ。
「鎌倉からの汽車の中だったように私は覚えておりますが……。」と彼女は云った。
 睫毛の長い黒目の小さな怪しい眼が、私を正面にじっと見つめながら笑っていた。私はあの時の無作法を揶揄されてるような気がして、冷たい汗が流れた。と共に、何ともいえない驚きを感じた。夫人は円満に出来上ってる女らしかった
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