しに、彼女がすぐ其処に立ってることを、私ははっきり知っていた。靄がすっと消えていって、今にも彼女がまざまざと現れてくるかも知れなかった。星雲から星々の形体が凝結してくるように、ただ一面にもやもやとしたものから、次第に一つのまとまった形体が刻み上げられる、それが普通の径路である。私はそういう時を待ちながら、或る焦燥と興奮と期待とのうちに、まだ形を具えないみさ子の姿を心で見つめていた。そして隧道を過ぎたことも大船に着いたことも、殆ど気がつかなかった。
 騒々しい呼売の声に、初めて私は我に返って、ぼんやり眼を見開いてみた。明々として車室の中や窓越しの歩廊《プラットホーム》の光景など、眼に映ずる世界が凡て、清冽な水にでも浸されたかのように、瑞々しく冴え返っていた。私は自分自身を取失ったような心地で、ただまじまじと眼を見張りながら、機械的に煙草を取出して火をつけた。その時誰かに言葉をかけられたとしても、私は恐らく返辞をしなかったろうし、或は突拍子もない返辞をしたであろう。
 そうした空な心で、私は煙草の煙を眺めていたが、ふと、煙の彼方、私と反対の側の腰掛の斜正面の所に、視線が自ら惹きつけられた。右の耳の上で分けるともなく髪を分けて、それを額の上に高く房々となびかせ、その末を後頭部でふうわりと束ねて、黒鼈甲の大形のピンを根深にさしている、清楚な趣味の女の頭が、恐らく私と同じような無関心さで、窓の外を眺めていた。その髪形、細そりした横顔、腰をくねらしている姿勢など、全体の恰好が、私の心にぴたりときた。
「みさ子だ!」
 でも私は別に驚きはしなかった。私の心はいつでも、自分の前にみさ子を見出すことを予期していた。ただ不思議なのは、鎌倉からその時まで、どうして彼女に気付かなかったのだろう? 彼女は何処で汽車に乗ってきたのだろう? 鎌倉よりも前から乗ってたのだろうか、或は鎌倉で私と一緒に乗ってきたのだろうか?……でもそんなことはどうでもよかった。彼女が果してみさ子であるかどうか、それが最も肝要なことだった。横顔でそうだと思ったのが、正面から見ると全く別人であるようなことも、よくありがちである。期待通りになるか或は期待が裏切られるか、それに対する不安の念から、私は先ず車室の中を見廻してみた。
 文学通らしい三人の青年、会社員風の二人の男、料理屋の女中と番頭といった風の男女、実業家らしい半
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