て作品の価値の標準としている。技巧の巧拙を云々することが、批評の唯一の役目であるかの如き観がある。近頃になって、作の内容に対する論が多少現われてきはしたけれども、それは暗示的内容と具体的内容とを混同したものが多く、そして結局は、やはり作者の表現的手腕が最後の評価対象となりがちであった。
 かく表現の技巧を第一の問題とし、作者の方でも表現の技巧を磨くことに主なる努力を重ね、而もこの技巧が一般に可なり進歩してきた、その結果は何であったか。それは現に月々の作品が説明している通りである。即ち、凡庸事を内容とする巧なる作品の過多である。作者の方では、なるべく手頃な材料をなるべく巧に描かんとする。評者の方では、描写の巧拙を以て作品の価値を律せんとする。両者相俟って、玉砕を捨て瓦全を取らんとするに至る。かかる状態が続く時には、文壇は遂に行きづまることを免れない。なぜなら、技巧的の進歩のみあって内容的の進歩がないから。これだけの事件もしくは人物を巧に描いただけだという歎声は、何に由来するかを考えてみるがよい。それは行きづまった一つの証拠でないか。
 かかる行きづまった状態から文壇を救う方法は、作品の具体的内容を問題とすることである。具体的内容のみを問題とするの危険を認むることに於ては、私は人後におちないつもりである。然し一般に技巧の進歩を来した吾が文壇は、進歩の余り一の扉にぶつかってる吾が文壇は、具体的内容を問題としてもいい位の境地にまで、辿りついてるのであると私は思う。特に大家連に於て然りである。
 表現の技巧が或る程度に進歩する時、それから先の作品の価値は内容の深浅によって定まる。Aの事件もしくは人物は、如何によく描写されようとも、要するにAの事件もしくは人物である。Bの事件もしくは人物についても同様である。そして意義的価値に於てBがAよりも優る時には、Bを内容とする作品がAを内容とする作品に優ることは自明の理である。勿論Aを内容とする作品を書くも、Bを内容とする作品を書くも、それは作者の自由である。然しながら、独立した作品としての見地に立つ時、また評者もしくは読者としての見地に立つ時、B内容の作品はA内容の作品の上に位する。そして、真に自覚ある作者ならば、なるべく上位の――有意義な――作品を書かんとする位の精進は、有する筈であり、有すべきである。かくて、作品の具体的内容が問題
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング