持たせてゆく。かかる作者の眼は、作中人物の意識しない底にまで透徹せんと努める。また透徹しなければいけない。なぜなら、芸術品は写真であってはならないから。かかる眼の働きが、真に作品の深さと価値とを生ぜしむるのである。作者が豪ければ豪いほど、この眼が益々強く深く働く。かかる働きを「批判の働き」と、私はかりに名づけたい。そして、この批判の働きの結果が、即ち作品の「書かれざる内容」となる。なぜなら、右の批判は、決して文字に現わすべきものではないから。もし之を文字に現わす時には、その作品は単なる感想文もしくは批評文となる恐れがある。芸術品に最も忌むものは、具体的表現を取っていない文字である。(一人称もしくは自叙伝的作品に於ても、之は真実である。なぜなら、それが一個の創作である限りは、作者と作中人物との区別ははっきり生ずるから。)こういう批判は、厳密に云えば、行と行との間に、もしくは作品の底に、暗示さるべきものである。それ故に、作品の「書かれざる内容」は、之を暗示的内容と云ってもいい。
 一の作品の、具体的内容と暗示的内容とを弁別するのは、最も困難なことである。低級な作品に於ては、本来よりして両者の区別がないし、また優れたる作品に於ても、両者は一体をなしているものであるから。それを両者に分解するは、優れたる批評家の眼力に俟つの外はない。然し私は、論旨を進める便宜のために、今かりに両者を区別してみた。

 さて、本論の最初に立ち戻ってみる。作品の書かれたる内容を、即ち具体的内容を問題となすべき時期に、吾が文壇は辿りついていると私は思う。
 一般的に云って、表現の技巧が可なり進んでることは事実である。云い換えれば、文壇の水準線が高まったのである。毎月発表される多くの作品を見ても、その技巧の方面に於て大なる欠陥を有するものは、極めて稀である。所謂新進作家の作品を見れば、この感が殊に深い。更に、各種の投書的作品を見ても、これは明かに感ぜられる。それらの作品は、みな可なりうまいものであり、更にその「うまさ」なるものが、表現の技巧のうまさであることを考える時、吾が文壇の技巧的水準線が、如何に高まったかは明かであろう。実際文壇に出ている多くの作家は、その表現の技巧に於て、可なりに確実な腕前を有している。大概の材料はこなせるだけの手腕を有している。
 また一方に、批評界の方では、表現の技巧を以
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