愛していたこと、今もあなたを愛していること、これからもあなたを愛し続けること。それだけを知っていて下さい。分りますね。喜久子さん、分ってくれますね。」
私は呆然とした。ばかのような気持ちになった。それから急に、血がかっと頬にのぼるのを覚えた。同時に、恥ずかしいのか情けないのか分らない思いで、唇をかみしめた。気がついてみると、片手を手塚さんの両手で握られていた。身動きが出来なかった。何かで身体を縛られたようだった。ふいに、手塚さんの汗ばんだような生温い掌を感じて身体の縛めが解けた。私は手を引っこめた。二三歩しざった。
手塚さんは、膝頭に肱をつき、両手を額にあてて、顔を伏せている。
私は階下へおりて行った。口惜しさが胸にこみあげてきた。何か一言、言ってやりたかったのだ。どんな一言か、それは考えても分らないが、どんなことでもいい、言ってやりたかったのだ。なぜ黙っておりて来たのだろう。私はむしゃくしゃした気持ちになった。汚らわしかった。手を洗った。外に出た。
冷やかな外気を深呼吸していると……突然、あれがまた、眼の中に蘇ってきた。
桜の古木がそこにあったのが、いけない。桜の古い幹は、どうしてあんなに醜いのだろう。若木は艶やかだが、古い幹となると、かさかさで節くれだち、垢が鱗のようにつもってるとも言えるし、皮膚病のかさぶただらけとも言えるし、見られたざまではない。散りやすい優しい花がその枝に群れ咲くのが、ふしぎに思える。
裏口の横手のあらい竹垣の外が、建物疎開跡の空地になっていて、その隅っこに、桜の古木がある。たいへん古い木とみえて、上の方は枯れ朽ち、横枝を少しく茂らしている。その古木のそばに、私はあれを見てしまったのだ。ちょっとした洗濯物を干し忘れてる気がして、夜中に雨でも降るといけないと思い、取り込みにいった。おぼろな月明りだった。洗濯物は見当らなかった。そんな筈はないと思いながら、しばらく貯んでいると、竹垣の彼方の桜の木のところに、何か眼につくものがある。気味わるかったが、竹垣からのぞいてみた。ぞっと背筋がつめたくなった。
月の光りがささない桜の木影に、その幹によりかかるようにして、ぶら下っている。白い単衣のひとだ。私は息をのんで、走り去ろうとしたが、次の瞬間、見違いだと分った。ぶら下ってるのではなく、二人抱き合って立っているのだ。でも、一人は後ろから首を宙に吊されてるように頭をがくりと垂れ、一人は前から首を宙に吊されてるように頭をがくりと上げ、そしてキスをしていた。背丈がちがうのだ。やがて、二人は離れて、月の光りの中に出て来た。それが、手塚さんと姉さんだ。
私は恥ずかしかった。キスそのことではない。キスなどは映画でいくらも見ている。恥ずかしかったのは、手塚さんと姉さんとのキスが、醜くてグロテスクだったこと。いくら背丈がちがうからといって、首縊りみたいな真似をしなくてもよさそうなものだ。そしてあんなところで、醜い桜の木のそばなんかで、しなくてもよさそうなものだ。恋人同士のキスにある筈の、清らかさ香り高さなぞ、みじんもなかった。
そして今、手塚さんは、なんということを私に言ったか。私の方を愛していたと。おう、私の方をだって。そんなことがどうして言えるのだろう。そして、私の愛情を求めるつもりではないと言いながら、私の手を両手に握りしめた。汚らわしい。そして、分りますね、分ってくれますねだと。いったい、何を分って貰いたいのだろう。然し、私にも少し理解しかけたことがある。
手塚さんは、郷里に帰っても、私のとこの二階の室は、やはり借りておいて、荷物はそっくり置いてゆくとのこと。いつ戻ってくるか分らないと言いながら、予定通りに半年ばかりで戻ってくるつもりなのだろう。そしてその間、私の心を繋ぎとめておきたいのだ。女を引きつけるには、好意にせよ、敵意にせよ、とにかく何等かの関心をこちらに持たせることが肝要で、無関心の状態に置いてはいけないと、何かに書いてあった。愛情でなくば、むしろ憎悪を、女に懐かせることが肝要だと。手塚さんの言葉は、そのどちらかをどうぞ、というような調子だった。姉さんには時折縁談があり、不在中にどんなことになるか分らないものだから、万一の場合のため、私の心を惹きつけておきたいのだ。いつも独りでは淋しいのだ。戦争のために心情は荒れてしまっておるし、工場に勤めて製図ばかりやり、生活に潤いがないからだろう。
こんなことを考えるのは、私が冷酷なからであろうか。姉さんはたぶん、私のような考え方はしないに違いない。姉さんは戦争未亡人なのだ。結婚生活は短く、御主人の戦死も公報が来たし、終戦後、実家に戻って来ている。再婚の話も時折ある。その縁談のことなど、手塚さんへどういう風に話しているのかしら。そして手塚さんはどういう風
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