宙に吊されてるように頭をがくりと垂れ、一人は前から首を宙に吊されてるように頭をがくりと上げ、そしてキスをしていた。背丈がちがうのだ。やがて、二人は離れて、月の光りの中に出て来た。それが、手塚さんと姉さんだ。
 私は恥ずかしかった。キスそのことではない。キスなどは映画でいくらも見ている。恥ずかしかったのは、手塚さんと姉さんとのキスが、醜くてグロテスクだったこと。いくら背丈がちがうからといって、首縊りみたいな真似をしなくてもよさそうなものだ。そしてあんなところで、醜い桜の木のそばなんかで、しなくてもよさそうなものだ。恋人同士のキスにある筈の、清らかさ香り高さなぞ、みじんもなかった。
 そして今、手塚さんは、なんということを私に言ったか。私の方を愛していたと。おう、私の方をだって。そんなことがどうして言えるのだろう。そして、私の愛情を求めるつもりではないと言いながら、私の手を両手に握りしめた。汚らわしい。そして、分りますね、分ってくれますねだと。いったい、何を分って貰いたいのだろう。然し、私にも少し理解しかけたことがある。
 手塚さんは、郷里に帰っても、私のとこの二階の室は、やはり借りておいて、荷物はそっくり置いてゆくとのこと。いつ戻ってくるか分らないと言いながら、予定通りに半年ばかりで戻ってくるつもりなのだろう。そしてその間、私の心を繋ぎとめておきたいのだ。女を引きつけるには、好意にせよ、敵意にせよ、とにかく何等かの関心をこちらに持たせることが肝要で、無関心の状態に置いてはいけないと、何かに書いてあった。愛情でなくば、むしろ憎悪を、女に懐かせることが肝要だと。手塚さんの言葉は、そのどちらかをどうぞ、というような調子だった。姉さんには時折縁談があり、不在中にどんなことになるか分らないものだから、万一の場合のため、私の心を惹きつけておきたいのだ。いつも独りでは淋しいのだ。戦争のために心情は荒れてしまっておるし、工場に勤めて製図ばかりやり、生活に潤いがないからだろう。
 こんなことを考えるのは、私が冷酷なからであろうか。姉さんはたぶん、私のような考え方はしないに違いない。姉さんは戦争未亡人なのだ。結婚生活は短く、御主人の戦死も公報が来たし、終戦後、実家に戻って来ている。再婚の話も時折ある。その縁談のことなど、手塚さんへどういう風に話しているのかしら。そして手塚さんはどういう風
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