誰も私を引き留めようとする者がなかった。酔って表の空気を吸いに出る、そんな風に思われたのかも知れない。それとも、もう私のことなど、面白くないので誰も眼にとめないのかも知れない。私はすっと外へ出た。
 もう暮れていた。都心から遠い雑草のある道を、とぼとぼ歩いていると、眼に涙が出てきた。なんというでたらめな、そして悲しい人たちだろう。先生はじめみんなそうだ。スカートの裾にまつわる宵の風には、もう秋の気があった。私は思いに沈んで、涙が眼にいっぱいたまり、ハンケチで拭いた。
 ところが、省線電車の駅近く、賑やかな街路の明るい灯を見ると、私はふと、騙されたような気持ちに変った。誰が騙したんでもない。先生やあの人たちが騙したんでもない。ただ私の方から騙されたんだ。つまり、すべてが嘘だったんだ。先生はじめ皆が言ったこと、したこと、すべて嘘だったんだ。それでは真実はどこにあるのだろうか。私の方だけにある。どこにもなく、ただ私の方だけにある。
 その思いは、奇異なものだった。私はまだ嘗てそんな思いをしたことがなかった。謂わば、外部の世界がすべて拵え物になって、自分一人が曠野の中に残された感じだ。
 それでも、またふしぎなことに、私は淋しくなかった。小さな小さな、光るものが心の中にあって、それが力となり喜びとさえなった。
 今にして私ははっきり思い当る。あの人たちすべて、ヴァージニティーを失っているのだ。精神的なことを言うのではない。単に肉体上のことだ。男たちはもう童貞を失っているし、女たちはもう処女を失っている。肉体のことだ。饐えた匂いがしていた。ざこ寝だってなんだって、平気で出来るだろう。
 だが私は、私の肉体は、処女の純潔さを保っている。年若い雛妓のそれとは、同じ肉体でも、香気が違うのだ。饐えた匂いなぞ、みじんもありはしない。
 私は一種悲壮な気持ちで、おそく家に戻った。手塚さんを加えた貧しい晩餐は、もう終っていた。私はみんなの平凡な世間話を聞きながら、こそこそ食事をすました。それきり何事もなかったのだ。何事かあるだろうと思っていたのは、私の処女の肉体の空想だ。童貞処女を失った肉体にとっては、たいていのことが可能であろう。しかもその可能性は、四方八方に拡がり得るとしても、つまりは浅薄なものに過ぎない。童貞処女の肉体にとっては、可能性は純潔のカテゴリーの中に制限される。制限されなが
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