い出した。僕がまだ小さい時に死んだ母だ……。」
開いたままの窓から、冷い夜気が流れこんできた。彼は立上って、窓のところへ行って、空を眺めた……。
いつのまにか、その後ろに、彼女も立っていた。
「どうするの、これから……。」
「沢山仕事がある。先は遠い。ゆっくり、あせらずに歩くんだ。君と別れて、僕は却って、君と強く結びつくような気がしそうだ。」
「…………」
見返すと、彼女の若々しい髪が、肉体が、電気の光を滑らして、息づいていた。それ全体が、一の抗弁のよう……。
彼はいきなり彼女を捉えて、胸に抱きしめた。
「許してくれ、それより外に、仕様がないんだ。」
「自由になりたいのね。」
「…………」
「いいわ。あたしも……自由に……。大丈夫よ。自暴《やけ》は起さないから。」
「誓う?」
「…………」
彼女はただ笑った。彼も憂欝な微笑を浮べた。
隣りの部室には、昼間の労働に疲れた、若いトルストイアンの小林が、深い寝息を立てていた。
七
有吉祐太郎の大腿部の傷は、快癒までに二週間を要した。彼はその間に、休職を願った。そして一年ばかり過ぎて、免官の許可を得た。蔭で、田代芳
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