笑い出して、彼の茫然とした顔を、不思議そうに眺めた。いきなり彼の首に飛びついてきた。
「さあ、キスして頂戴、キスして……。それだけ。それ以上は求めないことよ!」

 英子が帰ってきた時、杉本はまだ瞑想に沈んでいた。彼女は静に歩み寄った。
「どうしたの?」
 彼の顔に、苦笑の波紋がゆるやかに拡がっていった――徐々に夢からさめる者のように……。
 彼女は急に、彼の肩と頸とに取縋って、木像をでも抱くように、抱きしめた……。

     五

 座敷には煌々と電燈がともり、障子を取払った縁先には、岐阜提燈がまたたき、庭の芝生には、あちこちに、高張が白面をそば立てていた。それから先は植込で、初秋の星空の下に、高く、黒々と蹲っている……。
 座敷の正面、床柱のわきに、主人の田代芳輔は、老いた……というより、歳月に磨かれた渋い顔を、屈託のない微笑に和らげて、人々の談話よりも、その上を流れる戸外の夜気を楽しむ様子で、言葉少なに控えていた。縫紋の絽の羽織が上布の単衣の肩をすべっているのは、膝をくずしているからであろう。葉巻の煙が、ゆるく立昇る……。周囲には、年齢の意味でなく仕事の意味での、少壮の、代議士
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