、出て行こうとした。
「まあいいじゃないか。」
「隙なんですか。」
「うむ……。あの、例の先生たちは?」
「いませんよ。」
「また、君から金をまき上げて、酒を飲みに行ったんだろう。」
「…………」
 小林は黙って、薄ら笑いをしていた。
「まだ君は、ああいう連中と別れられないのか。」
 杉本の鋭い視線を、小林は意外に感じたらしく、暫くその眼付を窺ってから、云った。
「別れられるとか、別れられないとか、そういうんじゃありませんよ。同県人で、ああして一緒にいる……。だから、一緒にいるだけです。金のことなんか、向うにない時、僕にあることが多いんで、それで、持っていくんでしょう。あの連中は、酒が飲みたいんです。僕は飲みたくない。だから……。それに、これは僕の修養です。隣人愛というものが、どこまで持ちこたえられるものか、神というものが、窮極まで信じられるものか、どうか、そんなことが、やはり問題になっているから……。」
「そんな個人主義は、駄目だ。」
 杉本は叫ぶように云って、相手を遮った。そして、小林がまだぬけきらないでいる、トルストイ主義のことに、話を進めていった。――トルストイの豪いのは、隣人愛でも、無抵抗主義でもない。彼の偉大な個性だ。
 その個性は、結局、個人主義の行きづまりである。彼は個人として、凡てのものにぶつかっていった。信仰が人を生かすものかどうか、神が正しいものかどうか、そんなことに、個人的批判を下そうとした。人間は如何にあるべきものか。そういう問題を、個人的に解決しようとした。それは、云わば、自然そのものに対する巨人の争闘だ。その争闘に、あくまで突進したところが、彼の偉大な点だ。然し、そんな方法では、愛も、神も、見出せるものではない。益々影が薄らぐばかりだ……。
 杉本はいつになく熱心に、自説を主張し続けた。それに、小林は注意深く耳を傾けていた。奇矯にわたる説に出逢っても、驚きもせず、腹も立てず、神妙に聴いているのである。
 そしてこの、短く刈りこみ、日焼けの額に老けた筋が通り、善良な眼付と口付……骨格は頑丈だが、栄養が不良らしい肉附の、若いトルストイヤンと、茫漠たる風采の杉本との対話……その傍で、それには一言も口を出さず、強いて理解しようともしないで、英子は、しきりにリリアンを編んでいた。
 赤や黄や紫や白や桃色の、艶やかな絹糸が、サファイアの指輪をはめた
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