の境内で、彼女は突然そんなことを言いだして、くくくと笑った。
 襟元凉しく髪を取り上げ、はでな明石縮に絽の帯、白足袋にフェルトの草履、そしてハンドバッグに日傘、ちょっと物見遊山という身なりだった。その側で長谷川は、色あせた麻服の自分を、供の男めいて顧みられ、上衣をぬいでやけにシャツの襟をひろげた。
 湯ヶ原の旅館は、その嫁さんが千代乃のお琴友だちとかで、前夜の千代乃の電話で、室の用意がしてあった。渓流に上高く臨んだ室で、水音はうるさいが凉しかった。
 湯を一浴びしてから、千代乃は嫁さんのところへ行き、なかなか戻って来なかった。長谷川は水音に耳をかしながら、うっとりと仮睡の心地にあった。神経がへんに疲れてるようだった。
 夕食の料理が運ばれて来たのは遅く、それとほとんど同時ぐらいに千代乃は戻って来た。
「御免なさい。久しぶりだったものだから、すっかり話しこんでしまって……。」
 そんなことはどうでもよく、長谷川はただ投げやりな気持ちで、酒の猪口を取り上げた。
「あなた、前からそんなに、お酒あがっていらしたの。それとも……。」
「それとも……なんですか。」
 千代乃の眼に光りが湛えた。
「わたしとのこと、後悔なすってるんじゃないの。」
「どうしまして。光栄としてるんです。」
「冗談ぬきにしてよ。なんだか不機嫌そうね。」
「不機嫌どころか、これで、たいへん嬉しいんです。」
 そんな言葉がすらすら出るのが、長谷川自身でも意外だった。たしかに、松月館とは気分が違っていた。
「今日は、真面目にお話したいことがあるのよ。だから……。水の音がちょっとうるさいわね。」
「なあに、聞きようですよ。僕はさっき、あれを聞きながら、うとうとしちゃった。あ、ここのお嫁さん、あなたの琴のお友だちですって。水音も、お琴の音みたいなもので……。」
「あら、こないだのことを言っていらっしゃるの。」
 彼女は声を立てて笑った。
「あれ、わたしの策略よ。大成功だったわ。」
 彼女はそれを独りで楽しむかのように、なかなか話さなかったが、いちど口を切ると、例の通り、明けすけにぶちまけてしまった。
 つまり、辰さんの話の若月旅館の一件なのである。松木はそれを買い取ろうと、盛んに柿沼を口説いた。柿沼の方でも、大規模の製菓会社がいろいろ出来てきた現在では、彼の小さな会社は、戦後の一頃のような利益がないばかりか、次第に経営さえ困難になって来たので、もともとその土地出身者ではあり、松木の旅館業経験をたよりに、後図をはかる気にもなって、二、三の共同出資者を物色し始めた。その方はまあそれとして、若月旅館をいったい誰が実際に切り廻してゆくか。人任せには出来ない。大体のことは松木がやるとしても、松木には松月旅館があるし、松木の妻も善良すぎて手が廻りかねるし、結局千代乃を実務の監督に据えようと、そこに話が向いてきたものらしい。前々からの懸案なのである。
「このわたしを、宿屋のお上さんに、そして女中頭に、すえようとたくらんでるのよ。ねえ、この年齢で、可哀そうでしょう。」
 だから、千代乃は反対をとなえた。然し、いくら嫌だと言い張っても、むつかしい条件をいろいろ持ち出しても、結局は無視されそうになったので、最も単純素朴な策略を思いついたのである。お琴の勉強をほんとにやりたくなったので、たとえ若月旅館にはいるとしても、毎日、朝から晩まで、お琴ばかり弾くが、それでもよいか。例えばこんな風にと、彼女は示威運動に、あの二日間、一生懸命に琴をかき鳴らした。
 長谷川は腹をかかえて笑った。
「呆れたひとだ。」
「呆れたでしょう。柿沼も兄さんも呆れかえって、話はうやむやになっちゃったの。でもわたしの方は、おかげで、忘れかけてた千鳥の曲のおさらいがすっかり出来てしまった。」
 得意そうに微笑してる彼女は、まるで無邪気な少女のように見えた。だが、薄暮の空遠くに眼をやって、呟いた。
「窮すれば、通ずる……。」
「しかし、温泉旅館のお上さんというのも、わるかありませんよ。」
「女中頭にしたって、そりゃあそうよ。」
「普通のひとの羨むぐらいな、りっぱな地位身分じゃありませんか。」
「地位身分……そうだわ。それがわたしの気に入らないの。」
「それじゃあ、ただの女中なら?」
「同じことです。」
 きっぱり言いきって、彼女は眼を見据えて考えこんだ。
「わたし、便利すぎたんだわ。」
 なんのことか、長谷川には分らなかった。
「何にでも役立つという、便利なものがあったら、面白いでしょうね。室の中の、ここがすいてるからと、そこに据える。ここが淋しいからと、そこに据える。こんな役に立つといっては、それに使う。そのような便利な道具があったら、面白いでしょうね。」
 皮肉な影が眼に浮んでいた。
「宿屋のお上さんに、丁度いい。女中頭に、丁度いい。病気の女房代りに、丁度いい。お妾さんに、丁度いい。第二夫人に、丁度いい。別荘番に、丁度いい。何にでも役に立って、便利なんだわ。」
 顔をきっと挙げて、まともに長谷川を見た。
「長谷川さん、あなたまでが、情婦に丁度いい、なんて言ったら、承知しないわよ。」
 言葉はヒステリーみたいだが、調子は少しふざけていて、眼にはまだ皮肉な影があった。
 長谷川もそれに応じた。
「それじゃあ、千代乃さん、色男に丁度いい、なんて言ったら、僕も承知しませんよ。」
「承知しないで、どうなさるの。」
「殺してしまう。」
「そんなら、わたしも、あなたを殺そうかしら……。」
「ええ、どうぞ。」
「死んで下さる?」
「殺されたら、死ぬより外はないでしょう。」
「そうね、殺されたら死ぬより外はない……。」
 突然、一陣の風のように、真剣な気合が流れた。
「誓いましょう。」
 彼女に応じて、長谷川が手を差し出すと、その五本の指を、彼女は力一杯に握りしめた。
「痛い。」
 長谷川は手先をうち振った。彼女はまた手を差し出して挑んだ。その五本の指を、長谷川は力こめて握ってやった。細そりした指先だが、彼女は別に痛がらず、長谷川は力ぬけがした。
 黙っていると、川の水音だけが耳につく。たいへん深い下の方を流れるような水音だった。戸外はもう暗い夜だった。
 千代乃は女中を呼んで、酒を求めた。
「今晩、酔ってもいいでしょう。その代り、すっかりお話しするわ。」
「そう、泥でも砂でも、吐いてしまいなさい。」
「まるで、罪人のようね。罪人かも知れないわ。わたし、復讐したんだから。」
「復讐……僕に?」
「まあ、せっかちね。」
 千代乃の言葉は、断片的で、独断的で、まるで飛石伝いに歩くようなものだった。
 それを総合してみれば、つまり、彼女は柿沼や松木に復讐したのである。彼女を現在の境遇に陥れたのは、柿沼と松木との共謀によるもので、柿沼の病妻の死後には正式に結婚するという約束はあるにせよ、共謀の裏に相互の利害関係がひそんでることは確かだった。彼女は物品の如く売買されたのだ。そして彼女はなにも知らないうちに、ほとんど暴力的に肉体を奪われた。そして今度は、甘言を以って、旅館経営に徴用されかかっていた。そこに一度はいり込んだら、もう恐らくは一生、脱け出すことは出来ず、五十歳近い柿沼の最後の看病にまで、利用されることであろう。愛情もなく、生き甲斐もないのである。彼女は反撥し、反抗した。嘗て彼女も、恋愛を経験したことがあり、相手の男は戦争中に陣没したが、忘れかけていたその青春が、また芽を出した。長谷川が、どこやらその男に似ていたのだ。身を以てする復讐、そして身を以てする復活。彼女は長谷川を虜にした……。
 そこまでは、甚だ平凡であり、通俗小説の筋書きに等しかった。
 然し、彼女の心理には、特殊なものがひそんでいた。超自然的な奇蹟、人間の運命、その両者の関連など、普通の理知からはみ出した信念があった。深夜に琴がひとりでに鳴り響いたのも、彼女にとっては一種の啓示であり、あの日の大雷雨も、彼女にとっては一種の啓示であった。そして長谷川との肉体の交渉は、到達点ではなく、出発点に過ぎなかった。出発して、そして何処に到るかは、ただ神のみぞ知る。
 千代乃は、頬の皮膚を薄紙のように張りきり、眼に深い光りを漲らして、長谷川を見つめた。
「覚悟していらっしゃい。わたし、もう一生あなたを離さないし、あなたから離れないから。」
 長谷川もいつしか、覚悟をきめていた。
 遁れられない運命だと、なんとなく彼女の説にかぶれかかっているのである。
「僕だって、もう覚悟はしている。その代り、あなたも、あの言葉は取り消しますね。あまり深く想っちゃいけないということ……。」
「あの時はそうだったの。でも、今は違います。」
「では、条件なしですね。」
「ええ、無条件。」
 無条件の……降伏か、勝利か……そんなことが、ちらと長谷川の頭に浮んだが、彼はすぐ眉をしかめた。まるで違ったものだ。そして無条件ということは、ひどく自由であると共に、ぬきさしならぬ感じだった。
「無条件に……。」彼女は言葉を探す風だった。「生きていきましょう。」
 長谷川は頷いた。
「わたし、東京には、三田に伯母さんがあるから、柿沼のところには行かないで、そちらに泊ることにしているの。あなたのこと、その伯母さんに打ち明けて構いませんか。」
「構いません。」
「分ったわ。大丈夫、打ち明けなんかしません。でも、遊びにいらしてね。いい伯母さんよ。」
「それでも、なんだか……。」
「いやよ。毎日来て下さらなくちゃ、いや……。」
 駄々をこねるように、彼女は長谷川の肩に頭をもたせかけて、身体ごと揺った。酔ってるのか、甘えてるのか、恐らくは彼女自身にも分らなかったろう。長谷川も陶然として、彼女に甘えたくなった。
 渓流の音は、不思議にもう耳につかなかった。その代り、空に月が出ていた。長谷川は立ち上り、月を仰いで、それから電燈を消した。室半分、青白い月光だった。

     五

 ――長谷川梧郎に宛てた三浦千代乃の手紙――
 こちらへ帰って参りましてから、十日あまりになります。そしてようやく、なにもかも申し上げられる気持ちになりました。この山の中では、朝夕はもう凉しく、野には秋草の花が咲き、薄の穂が出ておりますけれど、ただいまは夜更け、月や星がきれいでしょうけれど、それも私には無縁、ただ虫の声だけが胸にひびきます。涙ぐんでいるのではございません。夜の深い静けさのなかに、むしろ、頬笑んでいるとでも申しましょうか。けれども、私としては、こんな時に頬笑むのは、泣くよりも、もっと淋しいことですの。
 三田の伯母さんは私に、「あんたは気がかちすぎているから、だめ、」と申しました。ちょっと私の弱点をついたような、それでいて実は理解のない、いやな言葉です。「だめ、」というのは、私の生活の問題についてのこと。御存じの通り、娘の敏子さんはデパートの店員をつとめ、伯母さんはその方の関係で、針仕事をしたりミシンをふんだり、そして二階は二人の学生に間貸しをして、それでじみに暮しております。私もそのように、自分で働いて生活したく、いろいろ尋ねたり相談したりしましたが、結局、私は気が勝ちすぎているからだめだそうです。自分の腕で働いてじみに暮すには、私には我慢が足りない、辛棒がしきれない、というのでしょうか。
 けれども私は、どのような苦しいことでも、どのような辛いことでも、やってみようと決心しておりました。覚悟をきめておりました。敏子さんのように、デパート勤めも致しましょう。伯母さんのように、針仕事やミシン仕事も致しましょう。出来ることなら、ダンスを習ってダンサーにもなりましょう。こちらで旅館の仕事を少し手伝ったことがある経験を生かして、小さな酒場を開いてもよろしく、場合によっては芸者になっても構いません。芸者は少くとも愛情によって行動出来ます。今の私の生活は、檻の中に入れられてる売女に等しいではありませんか。そこから脱出しなければならないと、一生懸命にもがいておりました。気紛れではございません。
 それを、伯母さんは少しも真に受けてくれませんでした。あ
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