のことは、もう忘れたかのように口に出さなかった。
長谷川も、柿沼のことは口に出さなかった。然し、新たな懸念が生じてきた。
千代乃とあの一夜を過して以来、柿沼に対する憎悪の念が、根深く彼の胸に植えつけられていた。憑かれたようなものだった。自分においては勿論、千代乃においても、もう柿沼とは何の係り合いもなく、新たな交渉が起るわけはないと、いくら考えても、その憎悪の念だけは抜き去ることが出来なかった。そのことが怖かった。
もし柿沼と出逢ったら……先日のようにバーかなんかで出逢ったら……素知らぬ顔が出来るかどうか。人間が違う、人種が違うと、それだけで済ませるかどうか。猫と鼠とは、犬と猿とは、出逢ったまま顔をそむけて通り過ぎるだろうか。同じ東京都内にいて、柿沼と出逢わないとは限らないのだ。
いきなり殴りつけるようなことは、まさかあるまい。然し、刄物があったら、ぐざと刺すかも知れない。階段の途中だったら、どんと突き落すかも知れない。彼の冷酷な蔑視に対して、こちらは凶行。
なにか神経衰弱などではないかと、長谷川は反省してみた。それでも、危惧の感じは追い払えなかった。千代乃に対する愛情の故だ
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