柿沼はしばらく考え込んでいた。
「どういう御用でしょうか。」と千代乃は促した。
 用件だけをすまして、彼女は早く切り上げたかった。柿沼はまだ考えていた。
「では、こうしましょう。ここから自動車で送り迎えをするから、僕の家までちょっと来てくれませんか。常子の位牌に線香を一本立てて貰う、それだけのことです。」
 いやだとは、千代乃は言いかねた。柿沼との別離がもはや決定的なことは、暗黙のうちに了解ずみだった。お線香一本ぐらいのことなら、と彼女は思った。承知すると、すぐに自動車が呼ばれた。柿沼と二人で乗り込んだ。車内で柿沼は一言も口を利かなかった。まるきり他人ではないが、べつに喧嘩してるのでもない、そんな妙な気持に千代乃はなった。道は遠く、中野の奥だった。
 柿沼の家で、千代乃は応接室の方に通された。それから、白木の位牌の前に線香を一本立てて、ちょっと掌を合せた。仏壇には花が供えてあった。応接室に戻ると、紅茶が出された。そこで柿沼は言った。
「万事はっきりしておきたいから、聞くんですが、あんたには、だいぶ銀行預金があったはずですね。」
「みんな引き出しました。」と千代乃は答えた。
「それ
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