る場所である。
 女中は火鉢に炭をつぎ、炬燵にも火を入れた。夜分は河風が冷えるのであろうか。
 風呂のことを聞かれると、千代乃は長谷川に相談もせず、いらないと答えた。
「お料理と、それから、お酒をね。」
 途中とちがって、彼女はもうあまり口を利かなかった。
 この家が気に入らないのか。それとも、疲れたのか。どちらでもない、と彼女は言った。
「なんだか、たいへん遠くへ来たような気がするの。」
「僕は、今朝から、たいへん長い時間がたったような気がする。」
 沈黙にふさわしい夕暮だった。長谷川は洋服をぬいで丹前をはおったが、千代乃は着換えなかった。
「このまま帰らなかったら、どうでしょう。」
「帰らないって、東京へ。」
「いいえ。なんと言ったらいいかしら……。これまでのあらゆるものを、すっかり捨て切って、新たに生れ変る、というような……。」
「そんなことなら、あなたはもう決心してるんでしょう。」
「しています。けれど、なんだか頼りなくなってきたの。」
 彼女は手を伸べて、長谷川の手を強く握りしめた。
「どんなことがあっても、わたしを見捨てなさいませんわね。」
「よろしい。誓いましょう。」

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