う。柿沼も兄さんも呆れかえって、話はうやむやになっちゃったの。でもわたしの方は、おかげで、忘れかけてた千鳥の曲のおさらいがすっかり出来てしまった。」
得意そうに微笑してる彼女は、まるで無邪気な少女のように見えた。だが、薄暮の空遠くに眼をやって、呟いた。
「窮すれば、通ずる……。」
「しかし、温泉旅館のお上さんというのも、わるかありませんよ。」
「女中頭にしたって、そりゃあそうよ。」
「普通のひとの羨むぐらいな、りっぱな地位身分じゃありませんか。」
「地位身分……そうだわ。それがわたしの気に入らないの。」
「それじゃあ、ただの女中なら?」
「同じことです。」
きっぱり言いきって、彼女は眼を見据えて考えこんだ。
「わたし、便利すぎたんだわ。」
なんのことか、長谷川には分らなかった。
「何にでも役立つという、便利なものがあったら、面白いでしょうね。室の中の、ここがすいてるからと、そこに据える。ここが淋しいからと、そこに据える。こんな役に立つといっては、それに使う。そのような便利な道具があったら、面白いでしょうね。」
皮肉な影が眼に浮んでいた。
「宿屋のお上さんに、丁度いい。女中頭に、
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