長谷川さん。」彼女は長谷川の眼の中を見入った。「これで、あなたはわたしがいやにおなりなすったでしょう。」
長谷川は頭を振った。
「ほんとうですか。」
「あなたは清らかです。」
彼女は眼にふっと涙をためて、長谷川の肩に縋りついた。
「いつまでも、愛してね。」
長谷川は彼女の額に唇をあてた。彼女の頬には涙が流れていた。
「さあ、もっと飲みましょう。」
彼女は涙を拭いて、頬笑んだ。それから鞄を開いた。ウイスキー、チーズやハム、菓子や果物、サイダーまであって、それらを彼女は卓上に並べた。
「お夜食よ。」
もう遅かったし、女中たちは先刻、隣室に布団をのべて、引きさがってしまっていた。
そしてその夜、千代乃はいつになく積極的だった。それも単に愛欲ばかりではなかった。全身を以て彼にまといつき、彼に密着し吸いつき、少しの隙間をも残すまいとし、彼の中に溶け込もうとした。凍えた者が温い毛布にくるまるように、彼の肉体で身を包もうとした。
「ね、もっともっと、あなたの愛情でわたしを清めて。」
わたしというのは、彼女の心や精神ではなく、肉体だった。肉体と肉体との接触が、肉体を清めるのであろうか。長谷川は自分の肉体の清らかさを感じた。彼女の肉体の清らかさを感じた。もう彼女の肉体は穢れてはいなかった。彼の肉体に密着して、彼女はうっとりとしていた。
穢れは、いやらしい影は、遠くに去っていた。それはもう、柿沼の許に脱ぎ捨てられていた。脱ぎ捨てられてはいたが、然し、やはりそこに在った。柿沼に対する反感憎悪を、長谷川は千代乃から引き継いだ。千代乃の清い肉体をかき抱きながら、それを防衛するような気持ちで、彼は柿沼を憎悪した。
憎悪は、柿沼の面影をそこに喚び起した。暗鬱な影をまとった仮面、それは、人間らしい感情、すべて人間らしいものに対する、蔑視だった。極度の蔑視こそ、自らに深い影を帯びる。その影に、千代乃は慴えたのではなかったか。もう大丈夫、心配なことはない、そういう気持ちで、長谷川は千代乃の清い肉体を抱き庇った。
十
自活の途を見出す、というよりも、開拓するのに、千代乃は苦心していた。長谷川や伯母にはいつも相談し、知人にも相談した。いざとなると、さすがに、何でもやるというわけにはゆかず、何処にでも飛びこむというわけにはゆかず、いろいろと思いがけない故障も起った。
柿沼のことは、もう忘れたかのように口に出さなかった。
長谷川も、柿沼のことは口に出さなかった。然し、新たな懸念が生じてきた。
千代乃とあの一夜を過して以来、柿沼に対する憎悪の念が、根深く彼の胸に植えつけられていた。憑かれたようなものだった。自分においては勿論、千代乃においても、もう柿沼とは何の係り合いもなく、新たな交渉が起るわけはないと、いくら考えても、その憎悪の念だけは抜き去ることが出来なかった。そのことが怖かった。
もし柿沼と出逢ったら……先日のようにバーかなんかで出逢ったら……素知らぬ顔が出来るかどうか。人間が違う、人種が違うと、それだけで済ませるかどうか。猫と鼠とは、犬と猿とは、出逢ったまま顔をそむけて通り過ぎるだろうか。同じ東京都内にいて、柿沼と出逢わないとは限らないのだ。
いきなり殴りつけるようなことは、まさかあるまい。然し、刄物があったら、ぐざと刺すかも知れない。階段の途中だったら、どんと突き落すかも知れない。彼の冷酷な蔑視に対して、こちらは凶行。
なにか神経衰弱などではないかと、長谷川は反省してみた。それでも、危惧の感じは追い払えなかった。千代乃に対する愛情の故だとも、解釈してみた。
千代乃の将来の計画が立ち難いのを見て、長谷川は言った。
「いっそ、田舎へ行ってみませんか。」
彼女はびっくりした眼を大きくした。
「え、田舎へ帰れと仰言るの。」
「いや、あなたの郷里じゃない。僕の郷里です。勿論、僕も行きます。淡路島……いい所ですよ。古い和歌にあるような、夢のような所ではないが、もっと現実的にのんびりしています。海に魚類の多いのは言うまでもないが、川には鮎がたくさんいるし、池には鯉がいくらでも育つし、鳴戸蜜柑は枝が折れるほど実るし……。」
中途で、彼自身、話の空疎なばかばかしさに気づいて、口を噤んだ。
千代乃は訝かしげに彼の顔色を窺った。
「淡路島もいいけれど、こんどのこと、うまくいきそうですよ。」
彼女の計画はだいぶ見込みが立っていた。
ある女学校の近くにある小さな文房具店が、店を閉めることになっているが、その店なら、彼女の資金で譲り受けられそうだった。経営がうまくゆくかどうか分らないが、とにかくやってみてからのことである。
これに、彼女はいちばん気乗りがしていた。二つの根拠があった。自分で商売をしてもいいし、働きに出てもいいと、あ
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