でいいでしょう。ところで、あの家屋だが、僕の名義になっているから、あんたの名義に書き替えることにします。その代り、松月館の方へ、あんたの名前でかなり出資してあるが、それは僕の名前に変えます。手続きはみな、松木君と僕とでするから、承知しておいて下さい。」
「分りました。」と千代乃は答えた。
柿沼は娘の弘子を呼んで、何か言いつけた。やがて、弘子は風呂敷に包んだ物を持って来た。
「これは、あんたのものですね。お返ししましょう。」
風呂敷をあけてみると、着古した紫繻子の冬コートだった。たしかに千代乃のもので、どうして置き忘れたか、新調の品と着換えて脱ぎ捨てたのか、よく覚えていなかった。千代乃はそれを風呂敷に包んで、お時儀をすると、弘子も極りわるげにお時儀をした。
「僕はちょっと用があるから、お送り出来ないが、よろしいところまで自動車で行って下さい。代金はいつも事務所の方ですますことになっているから、心配いりません。」
体よく追い払われた形で、千代乃はコートをかかえて自動車に乗った。
自動車のなかで、やがて、彼女は腹が立ってきた。どうにもならないほど、口惜しさが胸元にこみあげてきた。自分の意志はなに一つ働かず、まるで木偶のように扱われてしまったのだ。仏壇を拝ませられた上に、古いコートをお時儀して受け取り、それをかかえて、まるで女中のように出て来てしまった。――彼女は、芝公園の近くで自動車を降り、運転手に心附けも与えず、公園の中にはいって行き、人通りのないのを見計らって、コートの風呂敷包みを路傍に叩きつけた。自分自身が穢らわしかった。
その夜、彼女は柿沼への復讐を考えた。柿沼を殺してやろうかとも思った。ほんとに殺してやろうかと思った。なかなか眠られず、夜明け近くなってうとうとした……。
千代乃の飛び飛びの話を綴り合して、だいたい右のように、長谷川は理解した。
「それだけで、ほかになんにもなかったんですね。」
「ほかにって、どういうことですの。」
「いや、それだけのことなら、却ってさっぱりしていいじゃありませんか。柿沼さんらしいやり方だけれど、後腐れがなくていい。」
千代乃は刺すような眼付きを、長谷川に据えた。
「長谷川さん、あなたも、わたしをさげすんでいらっしゃるのね。そうでなければ、そんなこと仰言るわけはありません。」
「どうしてでしょう。僕にはよく分らないけれど……。」
「なぜ、ひとを騙して、お線香なんかあげさしたんですか。」
「別に騙したわけじゃなく、初めからそう言ったんでしょう。」
「銀行預金だの、家屋だの、出資だの、そんなことを、どうして言う必要がありますか。」
「それも、万事はっきりさしておきたいためでしょうよ。」
「古いコートのことなんか、どうでもいいではありませんか。」
「きれいさっぱりという、そのつもりなんでしょうよ。」
「いいえ、そんなことでなく、そのぜんたいのこと、ぜんたいの仕打ちです。」
「ちょっと待って下さい。僕を攻撃なすったって……。僕がしたんじゃありませんよ。」
「あなたには分らないんだわ。そんなら、今日のこと、なぜわたしが東京をいやがったか、すこしも察して下さらないのね。」
長谷川には全くそれは分らなかった。彼は黙っていた。
「わたし、ただ、柿沼から逃げ出してしまいたかったんです。」
「しかし、きっぱりと極りがついたんでしょう。逃げ出すなんて……。」
「いいえ、わたしはすっかり穢れているんです。柿沼の女中だったんです。拭ってもなかなか綺麗になりません。古コートを道に叩きつけて、自分も石に頭をぶっつけて死のうかと思いました。」
酒を飲みながらも、彼女の頬からは血の気が引いてゆくようだった。そして眼が底光りしていた。
長谷川にもようやく、彼女の気持ちが分りかけてきた。分りかけることは、同時に、柿沼という人物に対する反感が高まることだった。
「よろしい。僕にもすこし分りかけたようです。」長谷川は静かに言った。「柿沼さんは、しかし、別なことを言いましたよ。女というものは、家庭にあっては単に長火鉢でよいし、家庭の外にあっては単に湯たんぽでいいが、あなたは、千代乃さんは、長火鉢にも湯たんぽにもなれない人柄だと、そう言いました。」
「まあ、穢らわしい。」
「あのひととしては悪口のつもりかも知れないが、実は却って、あなたを褒めたことになるじゃありませんか。」
「いいえ、長火鉢だの、湯たんぽだの、なんてことでしょう。電燈とか、ランプとか、なぜ言わないんでしょう。」
「だから、あなたは、長火鉢にも湯たんぽにもなれないと……。」
「いいえ、わたしは柿沼の湯たんぽだったでしょうよ。そして昨日も、湯たんぽ扱いされました。」
それは、理屈ではなく、実感なのだろうと、長谷川は覚った。どうにもならないことだった。
「
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