た。勿論、石山に対してではなかった。何に対してだか訳が分らず、苛ら立たしいのである。
 それがきっかけだったのであろうか。無謀なことをしてしまったのだ。
 初めは、まだ時間が早かったせいか、客は僅かだったが、次第にこんできた。石山は知人もあるらしく、頭でうなづき合ったりした。
「そりゃあ、愛し合うのは君たちの自由だが……僕で役に立つことなら、いつでも相談にのるよ。」
 それだけで、石山はもう問題に触れようとせず、ほかの雑談を始めた。長谷川はいい加減にただ機械的な返事をするきりで、また千代乃の手紙のことを考えていた。その時、手洗に立った帰りに、あちらのボックスの奥に、一人ぽつねんとしてる柿沼治郎の姿を見かけたのである。駭然とも言える衝激を受けた。柿沼がこんなところに来てることが意外であったし、彼を見つけたことが、理屈ぬきに、更に意外だった。長谷川はちょっと後戻りして、まさしく柿沼であることを確かめた。それから席に帰ったが、もう石山に応答するのも全く上の空だった。
「どうしたんだい。彼女のことでも思い出したのかい。」
 石山は微笑したが、その微笑もすぐ、怪訝な面持ちに変った。
 長谷川は黙りこんで、柿沼と対決してやろうかどうかと考えていた。彼に千代乃を逢わせるくらいなら、自分が逢ってやろう……そういう熱っぽいしかし漠然とした感情が動いた。
 地下室、と彼は意味もなく呟いた。
 彼は顔を挙げて、石山に言った。
「もう出よう。」
「うん、久しぶりだから、ほかで飲み直そうか。」
「いや、もうたくさん。」
 石山は勘定をして立ち上ったが、長谷川は動かなかった。
「僕はちょっと、ここに残ってるよ。先に行ってくれ。」
 石山はなんとも言わずに、長谷川の様子を眺め、一つ大きく吐息をして、そして立ち去った。
 長谷川はうつろな眼で石山を見送り、それから頬杖をついて煙草を吹かしたが、それを半分きりで灰皿に突っこんだ。
 地下室、と彼はまた意味もなく呟いた。そして立ち上った。突然、冷静に返った心地がした。
 煙草の煙がだいぶ立ちこめ、スタンドの片端で、がらがらダイスを振ってる客があった。
 長谷川は静かな足取りで、真直に柿沼のボックスの方へ行った。

     七

 長谷川は柿沼の横手につっ立ち、どういう風に言葉をかけようかと迷った。
 柿沼は静かに顔を挙げて、長谷川を見た。その眼差しが初めはぼやけて、やがて焦点が定まってくる、そういう見方だった。
「長谷川さんですか。しばらくでした。」
 頷くような軽い会釈をした。
「お一人ですか。」と長谷川は尋ねた。
「ええ、さあどうぞ。」
 指された席へ、長谷川は彼と向き合って坐った。そして女給に、彼と同じ酒肴、ビールにハムにチーズを註文した。
 そのことが、長谷川自身、なにか滑稽な感じを持たせた。どうして柿沼と同じ品をあつらえたのか。柿沼の前に腰をおろして、いったい何事を話すつもりなのか。苛ら立たしいような滑稽さだ。
「奥さんが、亡くなられましたそうで……。」
 ばかなことを、長谷川は言った。
「ええ、長い間の病気で、もう見こみはなかったのです。諦めていました。」
 何の感情もこもらない調子で答えながら、柿沼は煙草の煙ごしに、長谷川の顔をちらと眺めた。
「家内の死亡を御存じの上は、その葬式に、千代乃さんが出て来なかったことも、御存じでしょうね。」
 千代乃さんという呼び方がちと異様にひびくだけで、少しも詰問の調子ではなく、淡々とした言い方だった。
「知っています。」と長谷川も率直に答えた。
「それでは、その理由も御存じでしょうね。わたしには、どうも分らないことがあるので、聞かしていただけませんか。」
 長谷川は黙ってビールを飲んだ。
「突然、このようなことを言い出して、へんに思われるかも知れませんが、これがわたしの流儀なので、決して、あなたの意表をつくというような、そんなつもりではないのです。男同志の話は、率直に限ります。そこへゆくと、女相手は、どうもわたしには苦手です。言葉通りに素直に受け取ってはくれず、いろいろと尾鰭がつきますからね。家内の病中もそうでした。こちらからいろいろ容態を尋ねると、もう自分は危篤ではないかと気を廻しますし、こちらで黙っておれば、ひどく冷淡だとひがみます。いずれにしても、やりきれませんよ。だから、君子でなくとも、危きに近寄らずということになります。するとまた、薄情だとされます。結局、わたしは、薄情だと自認せざるを得ません。あなたには、そういう経験はありませんか。もっとも、あなたはまだお若いから、そういうことはありますまいけれど……。」
「別に、そんなことを考えた覚えはありませんね。」
「そうでしょう。その方が結構です。けれども、あのひとから、千代乃さんから、そのようにわたしのこと
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