たの反婚主義とかいうものに、私も同感しております。
 兄は私に、「お前は長谷川さんに誘惑されたんじゃあるまいね、」と言いました。私は昂然と、「誘惑したとすれば、わたしの方でしたのです、」と答えてやりました。私はひとから誘惑されるほど、主体性とかを喪失してるつもりではありません。
 けれども、長谷川さん、あなたを失ったら、私はもう生きてゆけない気持ちがします。
 このへんで、なんだか、筆が乱れかけてきそうです。ちょっと煙草でも吸って、気を落着けることにしましょう。お酒は一人では飲みませんのよ。爺やの辰さんこそ、一人でお酒を飲んで、もうさっきから、あちらで眠っております。あなたは今頃、どうしていらっしゃるかしら……。
 さて、兄のことですが、私がこちらへ来てから、一週間ばかりして、兄も帰って来ました。常子さんの葬式は済み、無駄になった私の喪服を持ち帰ってきました。
 この喪服の荷物について、兄は先ず私に不平を言いました。それから、なぜ柿沼さんの葬式に行かなかったのかと尋ねました。言葉の調子は静かでしたが、言葉よりも眼つきで、じろりじろりと私の様子を窺っています。その態度が、私を苛ら苛らさせました。しかし、私はじっと虫を殺して、平気を装い、お葬式には行かないでもよいと思ったと答え、もう東京にも倦きたから帰って来たと答えました。内心はともかく、うわべでは、無邪気なお芝居が出来るので、私は思わず頬笑みました。
 すると、突然、兄はやはり静かな調子で、「長谷川さんに誘惑されたんじゃあるまいね、」といきなり言ったのです。もうお芝居は出来ません。私は逆に反抗してやりたくなりました。ただ、驚いたことには、あなたと一緒に湯ヶ原に行ったことを、兄は知っておりました。一晩泊るつもりだったのが、二晩にもなってしまったのがいけなかったのでしょうか。それにしても、どうして兄にわかったのでしょう。私としては別に隠すつもりもありませんけれど、いけないのは、兄の態度です。なんでもないことのように、静かな調子で口を利きながら、眼つきで私の様子を窺っているのです。私はきっとなり、そして言葉少なになりました。
「お前ももう子供じゃないから、くどくは言わないが、ただ慎重に振舞ってくれよ。そうでないと、おれもたいへん迷惑するし、柿沼さんにも申訳ない。なにごとも、慎重にたのむよ。」
 それが兄の最後の言葉でした。叱るのでもなく、怒鳴りつけるのでもなく、とっちめるのでもありません。こんなところ、柿沼とよく似ていて、同じ穴の貉とでも言うべきでしょうが、ただ、兄の方がへんに利己的な匂いがし、そして卑屈な感じがします。柿沼の方には、もっと深い怖いものがあります。
 兄との話はそれきりに終りました。兄からも、私からも、日常の些細な用事以外は、なにも言い出しませんでした。そして何事もなく時がたつのが、私にはかえって気懸りになりました。柿沼からもなんの便りもありませんでした。そして柿沼のあの陰鬱な不吉な影が、また私の眼先にちらつきだしました。
 昨日の晩、いえ、昨日の晩といえば昨夜ですから、一昨日の晩のことです。まだ明るいうちに、本館から辰さんがやって来て、旦那が見えませんでしたかと聞きました。いいえと答えると、はて、おかしいな、と首をかしげています。柿沼によく似た人を見かけたのだそうです。
 そのあと、暗くなってからのことです。私は茶の間で書物を読んでおりました。あちらの室で、少しばかりの寝酒をちびりちびりやっていた辰さんが、ふいに、はいと大きな声をして、玄関へ立ってゆき、戸をあけて、しきりに外をすかして見ています。私が声をかけると、辰さんは戸をしめて、そして言いました。
「いま、足音がして、だれか、戸を叩きませんでしたか。どうも、旦那のようだったがなあ……。」
 夕方のことから引続いた錯覚なのでしょう。私にはなにも聞えなかったのです。
 それから一時間ばかりたって、また同じことを辰さんは繰り返しました。私にはやはりなにも聞えませんでした。気のせいかな、と辰さんは呟いて、寝てしまいました。
 もうじっとしておるべきでないと、私ははっきり悟りました。
 翌日、つまり昨日のことですが、私は兄に向って、柿沼からなにか言ってきてはいないかと尋ねました。なにも便りはないそうです。よかったと思いました。もし柿沼がやって来るか、面倒な手紙が来るかすると、まずいことになりそうです。私の方から出かけていって、柿沼に逢ってみようと思います。きっぱりと処置をつけたいのです。けれども、やめた方がよいとあなたが仰言れば、柿沼に逢うのはやめます。
 準備が出来次第、私は三田の伯母さんの家へまた参ります。少しまとまったお金を用意しなければなりません。四五日はかかりましょうか。いろいろな計画があります。こぎれいな店を
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