奇心というものは、ある面では極度に強く、ある面では極度に淡い。長谷川は何の疑念も持たれなかった。
 然し、彼自身、疑念を懐いた。柿沼の死が他殺で、自分がその共犯人だとの、想像上の奇怪な疑念だった。彼は夜遅くまで酒を飲み歩いた。
 翌日午頃、彼は記者を訪れた。真相は分っていなかったが、当時の情況だけはかなり明らかだった。柿沼が轢かれたのは下り線だが、その時丁度、上り線に電車がはいって来、ほとんど同時に下り線にも電車が来た。高架線の階段を上りきったところのホームに、柿沼は立っていたが、そこからは下り電車の来るのは見えない。客は混雑しているし、電車の轟音は響いていた。柿沼は電車の来る直前に軌道へ落ちて轢かれたのだが、自分で飛び込んだのか、過って墜落したのか、人に押されて落ちたのか、それが不明で、人に押されたとしても、故意か偶然か不明なのである。尚、柿沼の身辺の事情によれば、自殺とは思えないし、製菓会社の内部に複雑な事態が伏在するらしく、意外な不正事実の端緒が掴めるかも分らないと、当局はその方へ目を注いでるらしい。製菓会社といっても、小規模のもので、目下半ば休業状態だが、それが却って怪しく、また柿沼は冷酷無慈悲な男だとの評判である。
 それだけの報告だったが、長谷川はそれで満足した。他殺だ、と彼は直感した。
 彼はすぐ千代乃を訪れた。久恵が家にいるので、外へ誘いだし、タクシーを拾って、新橋近くの小料理屋へ行き、狭い一室に通った。
「どうなすったの。」と千代乃は尋ねた。
「昼食をたべましょう。」
 彼は酒を誂えた。
「昼御飯じゃなくて、お酒でしょう。どうかなすったの。なんだか心配だわ。」
 彼は黙って、前日の夕刊を差し出し、記事を指し示した。彼女はそれを見落してるらしく、怪訝そうに覗きこんだ。
 彼女は顔色を変えた。身を反らすようにして、長谷川を見つめた。視力の強い、突き刺すような眼付きだった。
 沈黙のうちに、長谷川は一瞬、彼女が遠くにいるのを感じた。彼から遠く離れ去った、ばかりでなく、彼女はもう完全に柿沼から遁れ去っていた。そして遠くから、彼をじっと見守っている。
「僕は犯人じゃありません。」と長谷川は言った。
 彼女はちょっと眼をつぶり、その眼を彼に近々と見開いた。
「それを信じますわ。」
 彼女は手を差し伸べて、彼の手を執った。彼は手先に力をこめて握り返し、安らかな息
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