のことは、もう忘れたかのように口に出さなかった。
 長谷川も、柿沼のことは口に出さなかった。然し、新たな懸念が生じてきた。
 千代乃とあの一夜を過して以来、柿沼に対する憎悪の念が、根深く彼の胸に植えつけられていた。憑かれたようなものだった。自分においては勿論、千代乃においても、もう柿沼とは何の係り合いもなく、新たな交渉が起るわけはないと、いくら考えても、その憎悪の念だけは抜き去ることが出来なかった。そのことが怖かった。
 もし柿沼と出逢ったら……先日のようにバーかなんかで出逢ったら……素知らぬ顔が出来るかどうか。人間が違う、人種が違うと、それだけで済ませるかどうか。猫と鼠とは、犬と猿とは、出逢ったまま顔をそむけて通り過ぎるだろうか。同じ東京都内にいて、柿沼と出逢わないとは限らないのだ。
 いきなり殴りつけるようなことは、まさかあるまい。然し、刄物があったら、ぐざと刺すかも知れない。階段の途中だったら、どんと突き落すかも知れない。彼の冷酷な蔑視に対して、こちらは凶行。
 なにか神経衰弱などではないかと、長谷川は反省してみた。それでも、危惧の感じは追い払えなかった。千代乃に対する愛情の故だとも、解釈してみた。
 千代乃の将来の計画が立ち難いのを見て、長谷川は言った。
「いっそ、田舎へ行ってみませんか。」
 彼女はびっくりした眼を大きくした。
「え、田舎へ帰れと仰言るの。」
「いや、あなたの郷里じゃない。僕の郷里です。勿論、僕も行きます。淡路島……いい所ですよ。古い和歌にあるような、夢のような所ではないが、もっと現実的にのんびりしています。海に魚類の多いのは言うまでもないが、川には鮎がたくさんいるし、池には鯉がいくらでも育つし、鳴戸蜜柑は枝が折れるほど実るし……。」
 中途で、彼自身、話の空疎なばかばかしさに気づいて、口を噤んだ。
 千代乃は訝かしげに彼の顔色を窺った。
「淡路島もいいけれど、こんどのこと、うまくいきそうですよ。」
 彼女の計画はだいぶ見込みが立っていた。
 ある女学校の近くにある小さな文房具店が、店を閉めることになっているが、その店なら、彼女の資金で譲り受けられそうだった。経営がうまくゆくかどうか分らないが、とにかくやってみてからのことである。
 これに、彼女はいちばん気乗りがしていた。二つの根拠があった。自分で商売をしてもいいし、働きに出てもいいと、あ
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