代乃が間もなく東京に出て来るということを、柿沼はどうして知ったのであろうか。彼女は薄気味わるくなった。翌日はまず、長谷川に逢うつもりだったが、いろいろ考えてみると、どうせ柿沼にも一度は逢わねばなるまいと思い、その方を先に片付けることにした。
柿沼は神田に小さな事務所を持っていた。午後は、都心から遠い製菓会社の方よりも、その事務所にいることが多かった。以前はそこでいろいろな闇取引などもやっていたようだが、それも出来にくくなると、何か新たな計画を立てているらしかった。男二人に女一人の、いずれも若い事務員が三人いるきりだった。そこへ、千代乃は電話してみた。柿沼はいた。他の場所よりも、事務所でお逢いしたい、と言うと、よろしいとの返事だった。
板で中仕切りがしてある、狭い二室。その一室で、千代乃は柿沼に逢った。椅子だけは立派なものが備えてあった。
「僕の言づけを、誰から聞きましたか。伯母さんからですか、それとも、長谷川さんからですか。」柿沼はそう尋ねた。
「長谷川さんには、まだ逢っておりません。」と千代乃は答えた。
「そう。それじゃあ仕方がないな。僕はこないだ、長谷川さんに逢ったんだが……。」
柿沼はしばらく考え込んでいた。
「どういう御用でしょうか。」と千代乃は促した。
用件だけをすまして、彼女は早く切り上げたかった。柿沼はまだ考えていた。
「では、こうしましょう。ここから自動車で送り迎えをするから、僕の家までちょっと来てくれませんか。常子の位牌に線香を一本立てて貰う、それだけのことです。」
いやだとは、千代乃は言いかねた。柿沼との別離がもはや決定的なことは、暗黙のうちに了解ずみだった。お線香一本ぐらいのことなら、と彼女は思った。承知すると、すぐに自動車が呼ばれた。柿沼と二人で乗り込んだ。車内で柿沼は一言も口を利かなかった。まるきり他人ではないが、べつに喧嘩してるのでもない、そんな妙な気持に千代乃はなった。道は遠く、中野の奥だった。
柿沼の家で、千代乃は応接室の方に通された。それから、白木の位牌の前に線香を一本立てて、ちょっと掌を合せた。仏壇には花が供えてあった。応接室に戻ると、紅茶が出された。そこで柿沼は言った。
「万事はっきりしておきたいから、聞くんですが、あんたには、だいぶ銀行預金があったはずですね。」
「みんな引き出しました。」と千代乃は答えた。
「それ
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