のひとは、長火鉢にも、湯たんぽにも、なれませんよ。そういう人柄じゃない。」
呟くように言って、柿沼は階段を上っていった。長谷川はあとに続いた。地下室のバーから外に出ると、もう肌寒い初秋の夜気だった。まだ柿沼が何か言うかと思って、長谷川は一緒に歩いたが、しばらくして、そのばかばかしさに気付き、立ち止った。すると、柿沼も立ち止った。
並木の影の中で、二人は顔を見合った。帽子をかぶってる柿沼の顔には、何の表情も見て取られず、長谷川は眼鏡の奥で瞳をこらしたがふと、片手をあげて、無帽の長髪をかきあげる身振りをした。それを眼に納めて、柿沼は歩き去った。
長谷川はぴくりと肩を震わし、反対の方へ歩きだした。街路に小石を一つ見つけて、力一杯に蹴飛ばした。
その時、彼はなにか眼覚める思いがした。酔ってもいたが、そればかりでなく、柿沼に魅せられていたような気持ちだ。こちらに弱みがありはしたが、それにしても、彼は自分から何一つ意志表示もせず、柿沼の話だけを聞いて、鼻づらを取って引き廻されたではないか。しかも、柿沼の言葉にしても、どこまでが真実でどこまでが嘘かけじめがつかず、今になってみれば、彼はただ仮面と相対していたようなものだ。しかもその仮面の奥には、人の心情を突き刺すような、傲慢な蔑視の眼がひそんでいた。
長谷川は激しい憎悪の念を覚えた。と同時に、千代乃の面影を胸に抱きしめた。
八
千代乃からはその後、何の便りもなかった。長谷川は仕事をなまけ、酒に親しむようになった。仕事の方は、或る文化団体の事務、詳しく言えば社団法人の研究所の事務整理なので、少々なまけたとて支障はなかったが、酒の方は、時間的に彼の生活を乱脈にした。
彼は兄の家に寄食しており、兄は政党関係の仕事が多忙で、弟のことなど見向きもしなかったが、嫂はしばしば、眉をひそめたり揶揄したりした。
「梧郎さん、どうなすったの。この頃、なんだか荒れてますね。」とも言った。
「梧郎さん、恋愛でもなすってるようね。そんなら、早く結婚なさいよ。」とも言った。
「梧郎さん、身体でもおわるいの。医者に診てお貰いなさいよ。」とも言った。
梧郎はただ笑っていた。夜更しをし、朝寝をし、食欲は乏しかった。あまり朝寝坊をしていると、五つになる男の児がやって来て、彼の布団の上に乗っかって飛び跳ね、むりやりに起した。嫂の指図なのだ
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