初めはぼやけて、やがて焦点が定まってくる、そういう見方だった。
「長谷川さんですか。しばらくでした。」
 頷くような軽い会釈をした。
「お一人ですか。」と長谷川は尋ねた。
「ええ、さあどうぞ。」
 指された席へ、長谷川は彼と向き合って坐った。そして女給に、彼と同じ酒肴、ビールにハムにチーズを註文した。
 そのことが、長谷川自身、なにか滑稽な感じを持たせた。どうして柿沼と同じ品をあつらえたのか。柿沼の前に腰をおろして、いったい何事を話すつもりなのか。苛ら立たしいような滑稽さだ。
「奥さんが、亡くなられましたそうで……。」
 ばかなことを、長谷川は言った。
「ええ、長い間の病気で、もう見こみはなかったのです。諦めていました。」
 何の感情もこもらない調子で答えながら、柿沼は煙草の煙ごしに、長谷川の顔をちらと眺めた。
「家内の死亡を御存じの上は、その葬式に、千代乃さんが出て来なかったことも、御存じでしょうね。」
 千代乃さんという呼び方がちと異様にひびくだけで、少しも詰問の調子ではなく、淡々とした言い方だった。
「知っています。」と長谷川も率直に答えた。
「それでは、その理由も御存じでしょうね。わたしには、どうも分らないことがあるので、聞かしていただけませんか。」
 長谷川は黙ってビールを飲んだ。
「突然、このようなことを言い出して、へんに思われるかも知れませんが、これがわたしの流儀なので、決して、あなたの意表をつくというような、そんなつもりではないのです。男同志の話は、率直に限ります。そこへゆくと、女相手は、どうもわたしには苦手です。言葉通りに素直に受け取ってはくれず、いろいろと尾鰭がつきますからね。家内の病中もそうでした。こちらからいろいろ容態を尋ねると、もう自分は危篤ではないかと気を廻しますし、こちらで黙っておれば、ひどく冷淡だとひがみます。いずれにしても、やりきれませんよ。だから、君子でなくとも、危きに近寄らずということになります。するとまた、薄情だとされます。結局、わたしは、薄情だと自認せざるを得ません。あなたには、そういう経験はありませんか。もっとも、あなたはまだお若いから、そういうことはありますまいけれど……。」
「別に、そんなことを考えた覚えはありませんね。」
「そうでしょう。その方が結構です。けれども、あのひとから、千代乃さんから、そのようにわたしのこと
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