通りにするから……。」
「さあ、どうだろうね。」
 女中の方に島村が言葉を向けると、女中は静に笑っている。その眼がキミ子の眼と出逢って、更に微笑するのだ。いつのまにか、妥協してるのかもしれない。だが、そんなことより、島村は自分の仕事を持っていた。アトリエに籠って、彫塑の泥土をこねまわさねばならない。アトリエは彼の城廓だ。女中にも、誰にも、やたらに窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]を許さないのだ。がそこへも、扉の隙から、キミ子のおかっぱが覗きこむ。
「先生……。」
 甘ったれた声だ。わりに綺麗だという家のなかに、きたないところを見付けたのだ。仕事があったのだ。手をつけてよいかどうか、女中さんたちにもこればかりは判断が出来ない。お仕事の邪魔はしないから……。というのは、アトリエの次の室、彼女が昨晩とまった室、それがきたない。殊に棚の上や書物の間には、埃がたまっている……。
「静に……そして元通りに、しておくんですよ。」
 そんなことは心得てるという、そして嬉しそうな顔だ。実際、ことりとの物音もしない。彼女は、ゆっくりと掃除にかかっているのだった。書物を一冊ずつ引出しては、その埃を払っている。と同時に勉強しているのだ。文学書は埃を払っただけだが、美術に関するものは、洋書だと、一つ一つ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵を眺めてゆき、日本史のものだと、半日でも読み続けている。その方面のことは、まるで知らないらしい。つまらない初歩的解説に読み耽ったり、島村が隙な時には、西洋の名画や通俗画の見さかいなく、持ってきては題名を尋ねる――彼女には西洋文字の知識が皆無なのだ。そして彼女とは何の関係もなさそうな美術のことを幾らかでも知ることは、埃を払うことと同様に、彼女にとっては仕事なのだ。が一番おかしいのは、壺の掃除だった。彼女はどう考えてか、ソーダ水を飲む麦桿を十数本買ってきて、その一本を壺の中にさしこんで、顔を真赤にしながら吹き立てたものだ。壺の中には、驚くほど埃がたまっている。それが麦桿からの息で、ぱっと吹きたてられる。彼女の顔は黒くよごれ、髪は白くよごれる。同じ埃でも、顔と髪とでは、色がちがってくるのは妙だ。鏡を見て、彼女はくすくす笑っている……。
 そうして、彼女の臨時の室は――彼女は引続いてそこにしか寝ようとしない――少しずつ綺麗になっていった。そしてそこに、島村がアトリエにいない時など、彼女と子供たちが集っている。彼女は子供たちに書物を読んできかせるのだ。眼で文章を辿りながら、やさしい言葉に飜訳して話してきかせるのだ。その才能にかけては、彼女は全くのインテリだ。彼女はよくトルストイのものを読んだ。
「むかし、或るところに、お金持の百姓が住んでいました。この百姓に、三人の子供がありました。軍人のセミョーンと、腹の大きなクラスと、馬鹿のイワンで、その外にもう一人、マラーニャという唖の娘がありました。軍人のセミョーンは、王様に仕えて、戦争に出ました。腹の大きなタラスは、商売をするために町へ行きました。馬鹿のイワンは、妹と一緒に家に残って、一生懸命に働きました。軍人のセミョーンは高い地位にのぼり、領地もたくさん出来て、或る貴族の娘と結婚しました……。」(右原文――むかし或る国のあるところに、一人の金持ちの百姓が住んでいた。この金持の百姓には、三人の息子――軍人のセミョーンと、布袋腹のクラスと、馬鹿のイワンと、外にマラーニャという唖の娘とがあった。軍人のセミョーンは王様に仕えて、戦争に出た。布袋腹のクラスは商売をする為めに街の商人のところへ行き、馬鹿のイワンは妹と一緒に残って、一生懸命に働いた。軍人のセミョーンは、高い位や領地を得て、或る貴族の娘と結婚した……。)
 大体そういった調子なのだ。ところが、こんなやさしいところは無事だが、少しむずかしいところになると、彼女は言葉につかえたり、云いなおしたりする。小学校の子供たちは、殊に男の児は、それを非難する。嘘を読んでいるんだといいだす。彼女は書物を見せて、説明してやる。そしてなお熱心に話し続ける。そうした読み方が子供たちには嬉しかったに違いない。隙さえあれば、彼女にせがむ。島村も時々、その集まりの仲間にはいった。静かな晩、電燈の光がやさしい明るみを投げている。ランプか蝋燭でもともしたいような光景だ。子供たちは熱心に耳を傾けている。キミ子は一生懸命に飜訳して話している。ゆるやかな美しい声だ。言葉につかえると、頭をかしげて一寸考える。短い髪の毛がさっと揺れる。それでもなお言葉にまごつくと、困ったような無邪気な眼を大きく挙げて、朗かに笑いだす……。
 それは全く、彼が知っているバーの女給ではなかった。不意に闖入してきた客だ。そしてすぐに、家族の
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング