だ。彼女の前には、大きな※[#「王+昌」、274−下−15]玳の甲羅が壁にかかって、美しい色艶を見せていた。
「これ、鼈甲がめでしょう。」
「うむ。」
「鼈甲も、こうして甲羅でみると、そうブールジョワくさくないあね。」
 賛意を表するには、キミ子の口から出たとしては、余りに生意気な言葉だ。島村は黙って、煙草に火をつけた。その側へ、彼女は寄ってきた。
「あなたは、松浦って人、御存じ?」
「松浦……知らないね。」
「じゃあ、中江さんは?」
「中江……知らないね、そんな人は。」
「…………」
「どういう人だい、それは……。」
「それでいいわ。それから、あたしね、モデル女だとしといて頂戴。少し変かも知れないけれど……。」
「…………」
 じっと見入ってくる彼女の眼は、妙に真剣だった。真面目な秘密がその底にあるらしい。色恋の背景じゃない。何かしら生活的な背景だ。蓄音器のジャズに合して足ぶみをしたり、酔っ払った真似をしたり、処女でなければ出ないような甲高い叫び声で、客のわるふざけをけとばしたり、そして常に快活で陽気な、バーの彼女、それがいつもより理知的になって、――思いなしか、皮下の贅肉も少く、強健そうで、信頼のこもった真剣さを見せている。
「よろしい、君の云う通りにしておこう。安心し給え。」
 島村が手を差出すと、彼女は力強くそれを握りしめた。それをまた、島村は握り返した。彼も調子がとれなかったのだ。酔うとだらしがなくなって、やたらにはしごで、与太をとばして歩く、そういう時にしか逢ったことのないキミ子だ。それが、特別な好悪の感情はなかったにせよ、こちらが真面目でいる時に、こまっちゃくれた小娘の姿で、何かしら真面目な思想をもって、飛びこんでこられると、逆に、虚を突かれた形で、裏から覗かれた心地で、落付けなかったのだ。壁の高みで、玳※[#「王+昌」、275−上−24]の甲羅が笑っている。滑っこい、人を馬鹿にした笑いかただ。島村はやたらに煙草をふかした。キミ子は黙っている……。
 女中が、伊達巻姿で、布団を運んでくると、島村は立上って、用もないのにアトリエの扉を開いて中を覗いた。室の中を歩き廻った。グラスやコップを片附けた。――我儘なお客さんだ。その長椅子の上に寝るんだって。いい加減に寝かしてやれよ。
 キミ子は、びっくりした様子だ。顔を真赤にして、ばかに丁寧な言葉で、女中に詫びた。自分で布団を敷くんだと、女中と争っている……。
「じゃあ、おやすみなさい。」
 キミ子は真面目な顔付で、黙ってお辞儀をした。
 島村はそこに二人を残して、母屋の寝室の方へ行った。空が晴れてるらしい夜気だ。

     二

 眼がさめたら起上る、というのが島村の生活様式だった。睡眠時間は問題外だ。早く寝ようと遅く寝ようと、翌朝は、眼が覚めた時に起上るのだ。寝床の中で、煙草をふかしたり新聞をよんだりすることを、彼は知らない。起上って、顔を洗って、万事はそれからだ。随って、睡い時にはいつでも眠るということになる。朝食をして、新聞をみて、またすぐに寝床にはいることもある。それを彼は自然的保健法と云っている。
 前晩就寝が遅かったにも拘らず、彼は比較的早く眼を覚して、自然的保健法の習慣で、すぐに起上った。が驚いたことには、朝寝坊だろうと想像していたキミ子が、もうとっくに起上って、女中たちと一緒に立働いてるのだ。室の掃除や、雑巾がけや、庭掃き……。子供たちの学校行の仕度までも手伝ったそうだ。彼が縁側で煙草をすいながら、お早う、と声をかけると、丁寧にお辞儀をして、にこにこして、行ってしまった。おかしな奴だ。そして朝食の時には、女中たちと一緒に食べるんだといってきかない。お惣菜の都合があるからと女中に説かれて、漸く島村と一緒の食卓に坐ったものだ。
「朝っぱらから……困るじゃないですか。」
「だって、あたし、働くのが嬉しいんですもの。でも、先生んとこ、どこも綺麗ね。」
 昨晩とは、また言葉の調子がちがっている。だが、それが自然だった。朝日の明るみで見るせいばかりでなく、彼女は晴れやかな顔をしている。濃い眉毛が健康そうだ。眼の奥には、もう思想の影はない。まるい頬の脹らみに、口が小さい。鼻の下の上唇のみぞが深く切れて、それが大きな目玉と共に、子供っぽく無邪気にも見えれば、また、何だか不幸な運命を表徴するようにも見えるのだ。
「先生んとこに、一週間ばかり置いて下さらない? ちゃんとした家庭で、少し働いてみたいから。」
「主婦のない家庭でも、そう見えるかしら。」
「そんなら、半端な家庭でもいいわ。ほんとに、働いてみたいの。」
「まあ、気まぐれは、よすんですね。ただいるんなら、四五日ぐらい構わないけれど……方々かきまわされちゃあ、こっちから御免だ。」
「大丈夫よ、あたし、女中さんたちの指図
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