いたバーの名前だ。
「さあ……。」
宿酔の記憶は朦朧としている。だが、たしかに彼は行かなかった。天麩羅屋がふり出しで、日本酒のバーに行って、それから待合……。初めに天麩羅なんか食ったんで、腹が少し痛んでいるんだ。
「たしかに行かないよ。」
「なぜ?」
なぜってきく奴もないものだ。だが、それは島村にも初めての発見だった。コスモスは、キミ子がいてのコスモスだ。キミ子がいなくなれば、もうコスモスでも何でもない。女給はも一人いるし、洋酒のいいのも揃っているが、やはりキミ子が光っていた。彼女が美貌だというんじゃない。女給としてはむしろ不似合の顔立だ。また客扱いが上手だというんじゃない。むしろ我儘な方だ。それでいて、彼にとっては――どこまでも、彼にとってはだが――初めからの懇意さから、彼女だけが光っていた。懇意とか馴染とかは、おかしな連鎖を人間の間に拵える。その彼女がいなくなれば、コスモスは薄汚い狭いただのバーに過ぎない。彼女の――この女の――存在が、あすこでも何かの価値を持っていたのだ。
「君がいなけりゃ、行ったってつまらないさ。」
「そう。しばらく行かない方がいいわ。」
彼が? 彼女が? どちらともつかない調子だ。そして微笑しながら、彼の顔を珍らしそうに覗きこんで、二日酔ってどんな気持かしら、などと云い出すんだ。――それは、ぼんやり記憶の糸を辿りながら、自分では少しも口を利きたくなく、そのくせ誰か親しい者の話でも聞いていたい気持だ。――そんなら、全然反動的なものね、などと生意気なことを彼女は云う。酒の酔にも反動があるのは面白いなどと。だけど、酔払うと大抵は誰でもやたらに饒舌になるのは、不思議なことだ。殊に先生のはひどい。ふだんは無口でいて、一度酔ったとなると、やたらにべらべら饒舌りだす。どんなことでも饒舌ってしまいそうだ。信用ができない。秘密が保てない。酒飲みには大事が為せないとは本当だ。――然し、大事を為すには、秘密を保つ必要はないのだ。公明正大に為すべきだ。――それは実行にはいってからのことだ、などと彼女は云う。準備時代には或る種の秘密が保たれなければならない……。――だが、議論は今の彼には面倒くさかった。全く、自分では口を利きたくなかったのだ。ただ彼女の言葉を聞いているだけで足りた。それに、そこで饒舌っているのは彼女一人ではない。彼女のうちに、彼女以外の誰かがいるようだ。そして彼女は――キミ子は、だんだん遠くなっていく。コスモスでの存在の方が、眼前の存在より大きくなっていく。おかしな女だ。或は彼の認識が足りないのかも知れない。足りなくても構わない。腹痛はもう殆んど去って、身体各部のばらばらな感じだけがまだ残っていて、大儀なのだ。脳味噌にもまだ酒の滓が残っていそうだ。うつらうつらと、簡単な返事だけをしていると、彼女もしまいには黙ってしまう。こんな時、子供たちに対するように、書物でも読んでくれればよいのに……。
その子供たちの一人が帰ってくると、キミ子はその方へ行ってしまった。
彼は暫くうとうととした。珍らしく床の中で新聞を読んだ。起上ると、夕陽が赤々と照っていた。その中で、庭で、キミ子は子供たちと戯れながら、風呂の焚付に古い木箱をわっている。鉈を振上げたおかっぱの彼女は、コスモスの彼女や議論の彼女とは、また別な似合った存在だ。振向いた顔が、健康そうに赤くほてっている。
「みんなが、半日労働をして、半日勝手なことをして暮す……そうした世の中になると、ほんとうにいいと思うわ。」
言葉は公式だが、それでも、心から自然に洩れた本音らしい。云ってしまって、少してれぎみに、白い歯を出して笑っている。彼もつりこまれて微笑して、縁側に立ったまま煙草に火をつけた。
三
来てから丁度一週間目に、キミ子は一日外出した。夕方帰ってきた。まもなく食事だ。食事の間、何か考えこんでいるらしく、いつもよりおとなしく静かだ。そして食事がすむと、長くお世話になったが、明日帰っていくんだと云う。それも、何のことだ、またコスモスへ戻るんだと、島村の耳に囁くのだ。そして今日のおみやだとて、いろんな花火を一包、子供たちの前に拡げてみせた。花火はふるっている。彼女も自分で笑いだした。何を買ってきていいか分からなかったのだ。花火を売ってる知った店があるので、それを思いついただけのことだ。そればかりでなく、実は、後で島村に打明けたところでは、女中二人にそれぞれ草履を買ってきたので、お金が無くなったからでもある。だが、花火は子供たちが大変喜んだ。夜になると、皆で花火を上げて遊んだ。ぽーんと空高く破裂する火花は、子供たちの心をそそる。彼女も同じように心をそそられているらしい。何かしら浪費的な破壊的なものを嗜む情が、彼女のうちに積ってるらしい。火薬の蒼い光に
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