も、真面目くさった先日の彼女も、その中に融けこんでしまう……。彼はそっと、彼女の両脇から手をまわして、胸に抱きしめてみる――抱きしめてやるのだ。彼女はじっとしている。眼をあいて、天井の片隅に視線を休めている。何を考えているんだ? 横顔の頬が無心で、上唇の鼻下のみぞが、深くきれて、不幸な運命らしい。でも、今、彼の腕のなかで、安らかな呼吸をしている……。彼の唇が、彼女の唇の方へ寄っていく……。瞬間に、彼女は飛びあがってしまった。
彼は寂しく微笑した。
「御免、御免よ。そんなつもりじゃなかったんだけれど……。」
「うん、いいの。」
腑に落ちた様子で――何が腑に落ちたのか?――晴れやかな笑みをもらして、後ろ向きに、また彼の膝にとび乗って、伸びをしたものだ。ハドスンも相互扶助も、どこかへいって、淋しそうな彼女だ。そして、着物ごしにも、温い彼女だ。何にも云うことがなかった。
「さあ、もう遅いよ。寝よう。」
「まだいいの。」
「だって、いつまでこんなことしてたって、仕様がないじゃないか。」
「そうね。」
彼女は彼の膝からとび下りて、片手を差出した。何の疑念もまた欲望もない、大きな目付だ。彼は力強くその手を握って打振った。
「おやすみ。」
晴々とした気持だ。
その気持が、翌日までも続いていた。彼が起上ると、彼女はもう早く起きて、朝の掃除にかかっている。彼を見て、一寸眩しそうに笑うのだ。お掃除がすんだらすぐに出かけるんだと云う。それを連れて、彼はアトリエの次の室にはいっていった。目には立たないが、隅々まで妙に綺麗になったようだ。そのお礼に、何かしなくてはなるまい。それを彼は考えあぐんでるんだ。少なくとも彼女は、全く小間使同様に働いてくれた。品物では見当がつかないし、金銀ではいけないかしら?――そんなことだめ、と彼女は断然ぶちきってしまった。労働というものは、報酬を要求すべきではない。報酬を要求するからいけないのだ。その代り、生活は誰にでも与えられるべきだ。彼女は働かなければいけないから働いたのだ。食べたいから食べたのだ。室があいてるから泊ったのだ。労働は万人の義務で、生活は万人の権利だ。そういったことが、また彼女の頭のなかにはびこってしまっている……。
「こんど、コスモスで、チップに頂くわ。それまでお預けよ。……でも、困っちゃったわ。こんど来る時には、花火をどっさり持ってく
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