だお世話になったのは済まない、などと云うのだ。だが、事情というのは、或る事柄に関係していて――或る思想的秘密出版の手伝いをしていて、警察の方が懸念だったので、一時姿をかくさねばならなかった、とただそれだけのことなのだ。或はそれだけしか話せないのだ。而も、それも無事に済んでしまったらしいのだ。――つまらない。そんなことにこだわる必要はない筈だ。個人個人のこと、島村とかキミ子とか、二人の間の恩義だとか、そんなことは考える必要はなさそうだ。
「そんなことは聞かなくともいいよ。」と島村は微笑したものだ。「僕にだって大体の想像はついている。君たちは、もっと、個人的なことを離れていつも、社会だとか人類だとか、そんなことを考えていなくちゃならないんじゃないかね。」
 キミ子は顔をあげて、びっくりしたように彼の方を見つめた。そして、同じようなことを――全く同じことを、よく聞かされたと、首を傾《かし》げている。こざかしい額が髪の下から覗いている。
「僕だって、それくらいなことは知ってるよ。ただ、僕はまだ君たちの仲間でないだけだ。」
「…………」
 どうだか、という様子で、まだ首を傾げている。髪の毛が片方になびいて、自然の媚態をつくる……。そしてやさしい溜息だ。――自分たちは、強権主義とちがって、緊密な組織がないので、誰が仲間だか敵だかよく分らないので困る。でも、先生の言葉が本当なら、こんど是非、松浦さんや中江さんに紹介したい。今丁度、ハドスンの書いた鳥の生活の研究をやっている。あの単なる観察から、何かを引出すもくろみだ。相互扶助の研究の延長だ……。とそんなことを饒舌る彼女は、無邪気な一人の小娘に過ぎなかった。それが、ふいに立上ったものだ。
「秘密よ、ねえ。酔払って饒舌っちゃだめよ。」
 足を踏み鳴らしでもしたいとこらしい。その腕を捉えて、引張ると、彼女は素直についてくる。それを、彼は自分の膝の上に坐らした。
「大丈夫だよ。君の方がよっぽどお饒舌じゃないか。」
「そりゃあ……。」間の考えが長く、「先生を信用してるからよ。」
 膝に抱いてみると、思ったより丸っこくて重い。それを全部ゆだねて、彼の肩に頭をもたせかけてくる。着物には襟垢がついている。着て来たままのものだ。が髪の毛は、さらさらしている。そして毎晩、この長椅子の上に布団を敷いて寝てるのだ。これが本当のキミ子らしい。コスモスの彼女
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