まらなくなって、伸びを一つしておいて、室の方に行ってみた。すると、すぐ後から、今村ものっそりついてきた。
 波江はもう身仕舞いをすましていたが、化粧をしていないその素顔が、びっくりするほど蒼ざめていた。そして口をきっと結び、寝不足らしい瞼はしてるが、眼付に黒ずんだ険しい光を帯びていた。
 二人はちらと視線を合したがすぐにそらし、開け放した障子の両端に離れて、波江は坐り、今村は腰をかけた。そして云い合わせたように、どちらも同時に煙草に火をつけた。
「いま、御飯をそう云ったんですが、お酒をあがるんでしょう。それとも、ビールになさいますか。」
「酒にしましょう。」
 然し、波江は聞きすてて、坐ったまま動かなかった。
 東の空の雲は次第に水平線に低くなり、太陽の光は強さをまして、海面にふりそそぎ、そのために無数の小波がたってるかのようだった。
 料理が運ばれてきた。そして二人で、呆れたことには、朝っぱらから酒をのみ、今村はへんなことを尋ねた。
「ここは、御存じの家ですか。」
「いいえ、初めてです。」
「でも……。」
「芸者衆にきいて、電話をしといてもらったんですの。」
 それだけで、話はとぎれてしまった。暫くしてから、波江は眉根をぴくりとさし、急に顔を赧くしながら云った。
「あたし、もう帰りますけれど、あなたはここで、ゆっくりやすんでいらしたらいかがです。」
「いや、僕も帰ります。」
 それでもなんだかぐずぐずして、然し御飯には手をつけず、やがて波江は床の間の電話器をとって、勘定書を求めた。
 出かける時に、女中を先にたたせておいて、今村はちょっと躊躇してから、波江の肩に軽く手をやった。そして波江は求めらるるままに、然しきっと結んだままの唇を与えた。
 外に出ると、今村は急に、横浜の方まで散歩したいと云い出した。それを波江は冷淡に打捨てて、何か一念に凝ってるようだった。軽く会釈をして、自動車に乗り、もう見向きもしなかった。
 今村は通りがかりの自動車をひろい、横浜まで走らせながら、両腕をくみ、眼をとじた。
 横浜の海岸の公園まで行った。そして今村は、沖についてる気船を眺めたり、日の光を仰いだり、石垣の上から釣をしてる人の側に長い間立ち止まったりして、それからまたぶらついてるうちに、何かに躓いて倒れかけた。それをふみこたえて、苦笑したが、やがて、何と思ったか、帽子をとって、そのま新しいのをくしゃくしゃにまるめ、力一杯、石垣の上から海中に投げこんだ。帽子はまた広がって、うねりに揺れながらふわりと浮いていた。
 今村の顔には次第に生気《せいき》がさしてくるようだった。南京町にいって、支那料理屋にはいり、老酒《ラオチュウ》をのみ、よく食べた。それから電車で東京に帰っていった。
 電車の中で、今村は窓にもたれてうとうとしていた。その様子がすっかり心の落着きを示していたので、俺も安心して、言葉をかけてみた。
 ――波江さん、腹をたててたようですよ。あれで見ると、あなたのもくろみもまず成功だったわけでしょう。だが、最後に未練がましいことをして、きっと結んだ唇を差し出されるなんて、あまりいい図じゃありませんでしたね。その代り、帽子を海に投りこんだのは、ちょっと象徴的で、よかったですよ。
 今村はうっすらと眼を開いて、また閉じた。そしてうつらうつらしながら、呟いたのである。
 ――最後のキスなんて、お別れの形式的なものだから、どうでもいいんだ。帽子のことだって、象徴的でもなんでもありゃあしない。ただ頭を風に吹かせたかっただけのことだ。頭を風に吹かせる……それが一番大事なことだった。考えてみると、僕はばかな妄想に囚われていた。そもそもの初め、あの昔の燈籠流しの晩のことだって、僕はあの当時、東京で、ひそかに想いをよせてる女があった。その女が、丁度波江と同じくらいの背恰好だった。そのため、あんなことになったんだが、僕の心は、東京のその女にだか、波江にだか、どちらにキスしたのか分らなかった。だから、あのまま何でもなく別れられたんだ。ところが、最近、おかしなことがあった。雨の降る晩だ。僕は酔いつぶれて、あの店の奥の三畳の室に、ぐっすり眠っていた。するうちに、なんだか僕の名前を呼ぶ声がするようなので、なかば夢うつつで耳をかしてみると、話声がしている。――あたしと今村さんと……。――結婚はまさか出来ますまい。――それじゃあ、愛人とか、岡惚れとかってのは。――それもいいが一体、今村君は……。――ないんですの。――……仕様がないですね。金がなくちゃ、面白く遊ぶことも出来ませんし……。――だって、そんなのが却って……よくそう云うじゃありませんか。あたし時々、お小遣をあげて……。たのしみですわ。――そういうのが、空想という……。あなたは一体、空想が多すぎますよ。――よくそう
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