たね。あの方面は、何よりも憂欝ですね。みんな月給は少いし、相当の生活はしなければならないし、それかって、職工みたいに夜業をしたりなんかする余分の仕事はないし、僅かの時間を――随って月給を――必死になって固守しながら、隙があったら、いくらでも他人の時間を奪おうとしてるんでしょう。それからヒントを得て、私は愉快なことを考えたことがありますよ。会社を創立して、安い月給で大勢の社員を雇い入れる。いくら月給が安くても、失業者がうようよしてる現今、社員は不足しない。そこで、仕事にあり余るほどの社員を雇っておくと、みんな、朝から晩まで社内に鮨づめになって、而も自分の地位を失うまいとして、浅ましい競争、排撃、内紛が起ってくる。面白い光景を呈するでしょうね。
 ところで、その……懇親会でしたか。あなたのことをあてつける者がいましたね。あなたも少し用心が足りないものだから、波江さんとのことを随分誤解されて、陰でいろいろ噂に上ったりして、とんだ艶聞を流しましたね。いけないのは、あなたが評論家として少し知られてきたことで、彼奴生意気だと云う者があり、それについて、小料理屋の女とくっついてるとか、女を搾ってるとか、それをまた、あなたに贔屓する者があって、わざわざ報告したり、うるさいことでしたろう。懇親会の時は、みんな酔ってきたものだから、聞えよがしのあてつけも出てきたわけです。ところが、あなたも少し、酔ってもいたが、虫の居所がわるかったのでしょう。
 あなたのことを日頃いろいろ中傷していた塚田さんの方へ、つかつかとやっていって、塚田君、とただ一言云いましたね。顔色もかえず、落着き払った態度で、見事でしたよ。呼ばれて振向くところを、頬辺に、拳固で一撃くらわしておいて、すたすたと会場から出て行ったのがよかった。人を殴るにはあの骨法だ。いきなり一撃くらわして、相手がよろめきながら、呆気にとられて、まだ喧嘩の気組みにならない先に、すっと引上げるんです。殴り合い取っ組み合いになったら、勝っても負けても、胸のすくように、すっきりとはいきませんよ。
 本当を云えば、塚田さんを殴ったことは、恐ろしくあなたに不利でした。根もない蔭口なら黙殺するに限るので、人を殴ったとなると、根があったことになりますからね。それを承知でやったとすると、あなたも大したものですよ。だがあれは、実は、まだ癇癪まぎれの気味がありました
前へ 次へ
全18ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング