、一人の男の肌にも触れなかったと、あなたは信ぜられますか。それはとにかく、あなたが深く考えこんだのは、そんなことでなく、もっと身近な直接的なことではありませんでしたか。
初めは、私にもあなたの真意が分かりかねましたよ。夕方になって慌しく、大島の着流しに草履ばきで、帽子もかぶらず手荷物もなく、ステッキ一本で、懐中には波江さんから受取った百円とありったけの金を用意して、四五日旅をしてくると、だしぬけに出かけたんですからね。お母さんや女中ばかりでなく、誰だって驚きますよ。
あなたが先ずその薄茶の帽子を買ったので、私は初めて微笑したものです。それからあなたは銀座裏で酒をのみ放め、その晩は富士見町の待合にしけこみ、翌日はまた酒、夜はまた銀座裏、そして遅く、吉原までのしましたね。自暴自棄でしてるのかと思うと、そうでもない。妙に積極的な放蕩でしょう。そして精力を浪費してしまったんですね。
もうこうなったら、本望でしょう。あとは、ただ試してみるだけのことです。時間を気にしなくてもいいですよ、きっと波江さんは来ます。少しくらい後れるかも知れませんが、まあゆっくり落着いておいでなさい。精根つきたって様子をしていますね。そうでしょうとも。だが、何でそうびくりびくりするんですか。胸でもむかつくんですか。
面白かったですね。あなたが酒飲みなことは知っていたが、あれほどとは思いませんでしたよ。あなたの真意が大体分ったので、そうなれば私の領分ですからね、私も大いに愉快にやりましたよ。覚えていますか。え、よく覚えていない……それも無理はありません。面白いことをきかしてあげましょう。銀座裏で、橋のたもとに出た時、あなたはしきりに橋の欄干に上ろうとしましたよ。ところが、おかしなもので、充分に身体を乗り出さないものだから、何度もしくじりましたね。もっとも身体を乗り出しすぎたら、掘割の泥水の中に落っこちますがね。酔っ払ってても用心はあるもので、その用心が適度にもてず、いつも後へ後へとずり落ちてしまったんです。あなたのその様子を見ながら、私は考えましたね、人間てものは酔ってなくても大概こうなんだと。ちょっと肚さえきめれば、こわごわ尻をつき出さずに、ちゃんと橋の欄干の上につっ立つくらい、わけはないじゃありませんか。
富士見町に行っても、吉原に行っても、行った夜は、あなたは元気で積極的で動物的でしたが
前へ
次へ
全18ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング