りませんよ。」
 おばさんは頭を振った。
「怨んでいたんじゃありませんよ。ただ少し、羨ましがってたようですけれど……。」
「それにしてもね、とにかく、ひとを羨ましがらせるようなことをするのは、よくありませんよ。あっちで見せつけるから、こっちで羨むんでしょう。見せつけさえしなければ、誰も羨みなんかしないんですからね。少し慎しみが足りませんね。」
「見せつけるつもりはありませんよ。ただ、たいへん酒好きなだけでしょう。」
「いくら好きだって、まっ昼間から酔っ払ったりするのは、どうかと思いますよ。二人ともいい気になって、人前というものもありましょうにね。あんたがあまり飲ませるのも、いけませんよ。」
 娘さんが燗をしてくれた酒を、ちびりちびり飲んでいた私の方を、婆さんは横眼でじろりと見た。
 おばさんはいつもの通りにこやかで、温顔を崩さなかった。
「わたしは、ひとから何か頼まれると、いやと言えないたちでしてね。それでも、あの奥さんと諜し合せて、たくさんは飲ませないようにしてるんですよ。」
「ええ、あんたのことは分っています。けれど、どうしてああ勝手な振舞いが出来るんでしょうね。中村さんとの間に、ほんとに何もなかったんでしょうか。」
 婆さんは声を低めて、なにかしきりに探り出そうとしていた。そのようなこと、私には興味もなかったから、もう耳をかさないことにした。
 銚子一本、ゆっくり平らげて、もう一本頼んでるところへ、内山と朋子が現われた。内山は少し酒気もあるらしく、そして上機嫌だった。私の方へ、親しげに眼で会釈をした。私たちは互に、言葉を交えたことはなかったが、度々出逢ったし、どちらもソバより酒の方だったから、しぜんに会釈ぐらいはするのだった。
 朋子はおばさんに、煙草を三個出して見せた。
「パチンコで取って来たんですよ。上手でしょう。」
 内山は袂の中を探って、パチンコの玉を十個あまり、卓子の上に並べた。
「僕の方はこれだ。きっと、子猫が喜ぶに違いない。」
 朋子が振り向いた。
「あら、そんなことしていいかしら。」
「なあに、たくさんあるんだから、構やしないさ。」
 二人の子供っぽい調子をじろりと見て、婆さんはソバの代を払って出て行った。
 内山はパチンコの玉を掌の上に弄びながら、大きな声で言った。
「あのひと、僕はきらいだ。長く居られると、酒がまずくなる。」
 何とも言わなくても、二人には酒ときまっていた。彼等がソバを食べてるところを私は見たことがなかった。
 おばさんはにこにこしていた。酒の燗をしながら言った。
「今ね、あまり飲ませなさるなと、忠告されたところですよ。」
「あの婆さんにでしょう。そんなら、猶更飲んでやろう。丁度いい、これで飲み納めだから。」
 おばさんはまたかという眼つきをして、くすりと笑った。
 内山は酒を飲んでるうちに、へんに真剣らしい眼つきで天井を仰いだ。それからおばさんの方をじっと見た。
「おばさんは相変らず肥っていますね。心が円満だからな。大丈夫、神経衰弱なんかにはなりません。」
「そうですとも、大丈夫、なりませんよ。」
「いったい、この頃、たいていの者はみな、精神のバランス、釣合いを失っていて、そのため、意志薄弱になっていますね。酒を飲みすぎるのも、意志薄弱、猫いらずを飲むのも、意志薄弱のせいでしょう。」
 おばさんは頬の肉を少し固くした。
「内山さん、死んだひとのことなんか、気にしないがいいですよ。」
「勿論、気にしませんよ。僕に何の関係もありませんから。ただ僕が言いたいのは、生命をぞんざいに扱う者が多すぎるということです。新聞を見ても分る通り、人殺しが多すぎるし、自殺者が多すぎる。そりゃあ固より、御本人の自由です。僕としては、死にたければ死ぬがいいし、生きていたければ生きてるがいいと、そう思ってますよ。ところが、一つ自由にならないことがある。生きるも死ぬも自由なくせに、つまらないことが自由にならない。例えば酒を飲むのも飲まないのも自由になったら、僕はもう安心して、おばさんみたいに肥りますよ。」
「だって、内山さん、お酒をあがるのもあがらないのも、あなたの御自由じゃありませんか。」
「ちょっと違うな。それが、自由じゃないんですよ。ねえ、朋子さん、自由じゃないでしょう。」
「そうですね、飲むのは自由でも、飲まないのは自由でないようですね。だから、意志薄弱……。」
「それから、高血圧……。だけど僕は断じて病気では死にませんよ。」
 朋子はやさしい眼つきで内山を見守った。
「なにか召上りますか。お鮨でも取りましょうか。」
 内山は頷いた。娘さんが出前のためいなかったので、朋子は自分で出かけて行った。
 内山は顔を伏せたまま言った。
「おばさん、いつも勝手ばかり言って済みません。朋子さんにも済まない。けれど、僕
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