くても、二人には酒ときまっていた。彼等がソバを食べてるところを私は見たことがなかった。
おばさんはにこにこしていた。酒の燗をしながら言った。
「今ね、あまり飲ませなさるなと、忠告されたところですよ。」
「あの婆さんにでしょう。そんなら、猶更飲んでやろう。丁度いい、これで飲み納めだから。」
おばさんはまたかという眼つきをして、くすりと笑った。
内山は酒を飲んでるうちに、へんに真剣らしい眼つきで天井を仰いだ。それからおばさんの方をじっと見た。
「おばさんは相変らず肥っていますね。心が円満だからな。大丈夫、神経衰弱なんかにはなりません。」
「そうですとも、大丈夫、なりませんよ。」
「いったい、この頃、たいていの者はみな、精神のバランス、釣合いを失っていて、そのため、意志薄弱になっていますね。酒を飲みすぎるのも、意志薄弱、猫いらずを飲むのも、意志薄弱のせいでしょう。」
おばさんは頬の肉を少し固くした。
「内山さん、死んだひとのことなんか、気にしないがいいですよ。」
「勿論、気にしませんよ。僕に何の関係もありませんから。ただ僕が言いたいのは、生命をぞんざいに扱う者が多すぎるということです。新聞を見ても分る通り、人殺しが多すぎるし、自殺者が多すぎる。そりゃあ固より、御本人の自由です。僕としては、死にたければ死ぬがいいし、生きていたければ生きてるがいいと、そう思ってますよ。ところが、一つ自由にならないことがある。生きるも死ぬも自由なくせに、つまらないことが自由にならない。例えば酒を飲むのも飲まないのも自由になったら、僕はもう安心して、おばさんみたいに肥りますよ。」
「だって、内山さん、お酒をあがるのもあがらないのも、あなたの御自由じゃありませんか。」
「ちょっと違うな。それが、自由じゃないんですよ。ねえ、朋子さん、自由じゃないでしょう。」
「そうですね、飲むのは自由でも、飲まないのは自由でないようですね。だから、意志薄弱……。」
「それから、高血圧……。だけど僕は断じて病気では死にませんよ。」
朋子はやさしい眼つきで内山を見守った。
「なにか召上りますか。お鮨でも取りましょうか。」
内山は頷いた。娘さんが出前のためいなかったので、朋子は自分で出かけて行った。
内山は顔を伏せたまま言った。
「おばさん、いつも勝手ばかり言って済みません。朋子さんにも済まない。けれど、僕
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