、また十一谷君から私を見たら、本当に文学をやってるのかどうか危っかしく思えたことであろう。こういう点について、十一谷君とゆっくり話し合うことのなかったのを、ひどく心残りに思うのである。
 十一谷君の最後の絶筆は、朝日新聞の「花より外に」であった。三十九度もある発熱のなかで、解熱剤をのみのみ、六月の暑い日に、障子をしめきり布団の上に起き上って、あの洗練さと精緻さとをくずさずに毎日書き続けた精進は、見る者に涙を催させるものがあった。当時の主治医は病気を軽く見ていたようだが、レントゲン写真に依ると、既に右肺の大半と左肺も点々と結核に犯されていた。十一谷君は回復を確信していたが、入院生活ではその確信がもてないと云って、自宅療養を続けた。
 昨年の末、逗子から秋谷に移転した当時、十一谷君の確信は実現しそうな様子だったそうである。丘の中腹にある瀟洒な家で、二階には小さなサンルームがついていて、其処から日の出が見られ、家の後方二間ばかりの坂を上ってゆくと、海に沈む日が見られた。私が訪れた時は、「何よりもただ太陽……太陽を信仰するのだ。」としみじみ語っていて、丁度夕刻になったので、夫人と三人で後ろの坂を上っていって、海に没する夕陽を雲の切れ目に眺めかつ拝んだ。
 今年になって、私はいろいろな雑用に追われ、心ならずも見舞を怠っていた。夫人からは時々手紙をもらい、十一谷君自身からも一二度手紙をもらった。然るに三月半ばから、喉や腸に故障が起ったらしく、四月初めに私は見舞うことを予報していたところ、四月一日夕刻から急に容態あしく、二日の午前十時半、夫人に守られながら事切れてしまった。日暮にかけつけた私は、夫人に対して一言の言葉も出なかった。死顔はキリストに似ていて、あの独特なへんに人なつっこい若々しい笑みは底に潜んでいた。
 火葬に付した時、頭蓋骨が仄白く原形のまま目立っていた。骨上げの老婆は「頭の丈夫なお方でしたな。」と云いながら、骨壺の中に他の遺骨を納めた上から、大きな白い頭蓋骨をすっぽりとかぶせた。――その丈夫な頭の中に宿っていたところの、掏摸で俳人で墓石の研究者たる大江丸旧竹の生涯も、材料は揃っていながら書かれずに終ったし、病床でノートに書きつけていた自叙伝的随筆も、数頁だけで終ってしまった。
 遺族は春子夫人と四歳の町子さん。戒名は清藤院義徳良元居士。墓地は神戸。告別式が終ってま
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