困窮していたらしい。そんなことは私によく分らなかったものだから、まだ同書院をやってた当時、十一谷君が私の困窮を見て、私の負債整理に尽力してくれた頃、「とにかくお互に有無相通じて急場をきりぬけよう。」と云ってくれたのを、私に気兼ねさせまいとの老婆心からだろうとそのまま聞き流したのを、今となっては心苦しく思うのである。
 みだりに胸襟を開かず、狷介狐高、体面を保ち、終始矜持をもち続けた生活を、十一谷君は守り通したのだった。一人の兄と二人の弟とのために可なりの金を負担し、更に好日書院のために可なりの金を負担し、そして一昨年母堂の病死、昨年弟の病死、その後に自身の病気なので、療養も意の如くならなかった。それ故、私たち――川端康成君や三宅幾三郎君や菅忠雄君や秋山数夫君など、いろいろ心配して、文壇の知人関係から見舞金を集めようとはかったのであるが、十一谷君はそれを耳にすると、あくまで固辞し反対した。尤ものようでもあるから、その企ては止めることになった。然しながら、そういう人柄だったに関らず、新らしく知り合いになった者にたあいなく惚れこむ癖もあった。その代り、親しい者ともやがて疎遠になることがあったようだ。そして更に、近年の大衆向きの作品には、勿論加筆はしたろうが代作がいくつもあったということを聞いては、私ならずとも驚く人が多かろう。こういう点になると私の理解の範囲外で、まあ強いて云えば、作品に書いた平賀源内などに相通ずるものがあったのであろうか。
 文学者間では私は十一谷君と最も親しい者の一人だったが、逢えば碁か雑談で、文学論などをすることが殆んどなく、お互の作品を批評し合うことも殆んどなかった。余り親しくて照れくさかったせいもあろうし、七つの年齢の差があったせいもあろうが、また、創作態度が次第に異ってきたからだったろうか。十一谷君の短篇集「青草」や「あの道この道」などの時代には、作品の傾向も互に近かったが、「唐人お吉」から「神風連」などになると、十一谷君の視野は時代的な広さをもち、小説形式は整備してき、表現技法は独特な彫琢を加えてきたし、私の方は逆に、作品との距離を取失い、形式や技法を無視するようになってきた。昭和六年に十一谷君は、「文学と生活が漸く一致し来りたるを覚ゆ。」と書いているが、それは私から云わすれば、文学のために生活を萎ますような作家態度が確立されだしたことであり
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