て見えた。
家中の者が総がかりで、依子を退屈させまいとした。彼女の珍らしがる物はいくらもあった、床の間の香爐、兼子の手提袋、幾代の室の人形柵、庭の隅の桜や椿の花弁、空池の底の小石、玩具に倦きるとそんなものまで持ち出された。けれども晩になると、彼女は不思議そうに室の中を眺め廻した。皆からあやされてもいやに黙っていた。
「お母ちゃん!」と彼女は云った。
「え、なに? お母さまは此処に居ますよ」と兼子は云った。
「お母ちゃま」と依子は云った。それから頭を振った。
依子はどうしても寝間着へ着換えたがらなかった。幾代や兼子がいくらすかしても駄目だった。しまいには泣き出した。幾代はそれを抱いて、室の中をよいよいして歩いた。次には景子が代った。依子は何時までもじっと眼を見開いていた。兼子はそれを背中に負《おぶ》った。電気に蔽いをして室を暗くした。余り長く黙ってるので覗いてみると、依子はもう眠っていた。安らかにつぶった眼瞼の縁に、ぽつりと涙が一滴たまっていた。
幾代が抱いて寝ることになった。布団の上に寝かしても、依子はもう眼を覚さなかった。寝間着に着換えさしても、口をもぐもぐやるきりで、ぐっすり
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