ちだけを執拗に分解して見た。然し幾代の理由は簡単だった。どうせ兼子に児がないとすれば、そして兼子自身で望んでいることである以上は、依子を引取って育てた方が、家の血統のためにも皆のためにも、凡て好都合ではないか。もし兼子に子が出来ても女の子であるから少しも差障りはない。
「固より向うとはきっぱり手を切ってしまうのです。」と彼女は云った。
「然し戸籍の上にはいつまでも残りますよ。」と彼は母が気にしそうなことを持ち出してみた。
「それ位は仕方がありますまい。」彼女の答えは落付いていた。「兼子さんに児が出来ないとすれば、他《ほか》から何とかするよりも、その方が都合よくはありませんかね。第一兼子さん自身でそうしたいといってることですし……。」
 否々、と彼は心の中でくり返した。そのことを考え出したのは、兼子自身ではない、また幾代自身でもない。それは二人の間の空気、善良な女性としての二人の間に醸し出された空気、に違いなかった。
「お母様からお話がありましたでしょう。」そういう風に兼子は彼に云った。「……私も是非そうしたく思いますわ。どうせ自分には児がなさそうですから、その子を自分の子として育てたいのです。」
「然しそれは、お前の本当の心から出たことではないだろう?」と彼は云った。
「いいえ、いいえ、私からお母様にお願いしたのですわ。」
 彼女の顔は晴々としていた。夢みるような眼で、彼の眼をまともにじっと見返した。彼は視線を外らして、額を掌で支えた。
 子供のないことが、血を継ぐべきもののないことが、一家の母としての女性にとっては、また一家の妻としての女性にとっては――幾代と兼子とにとっては――如何なるものであるか、それを考えると、彼は泣いていいか笑っていいか分らない気持ちになった。然し兼子に子供が出来ないということは、まだ確定した事実ではなかった。ただ四年間の結婚生活によって裏書きされてるのみだった。不妊の「かも知れない。」を肯定するならば、手術の効果の「かも知れない。」をも肯定していいわけだった。然し幾代も兼子も手術を嫌った。そして、不妊の「かも知れない。」を肯定しっつ、それを実は打ち消そうとしていた――奇蹟を信ずるような心で。
「よその子供を育てると、不思議に家でも児が出来る。」
 馬鹿、馬鹿! と彼はやけに首を振った、そんな迷信で生活の調子を狂わしてはいけない。子供とはいえ、一人の存在を弄んではいけない。
「そんなら、」と兼子は云った、「私にはその子供を愛せられないと思っていらっして?」
 然し彼から云わせると、それがなおいけなかったのだ。愛しようと欲することと愛するという事実とは、別なものであった。彼女はそれを混同していた。他の女と良人との間の子を引取って、それを実の母のように愛すること――愛したいということ、其処に彼女の任侠的な感傷があった。そして子供の上に一種の美しい幻を投げかけていた。
「僕はお前を愛するから、」と彼は云った、「僕の過去の暗い罪で、お前の生活を乱したくない。」
 それでも彼女はびくともしなかった。彼女の存在は無意識的に、自分一個の生活よりも、更に広い生活を欲していた。たとい自分の一部を犠牲にしても、次の時代の母となりたがっていた。依子を引取ることによって、奇蹟のように自分に児が出来るならば、それに越したことはなかったが、たとい児が出来ないまでも、それは少くとも美しい感動すべき行いだった。そして依子を実子のように愛したら……。
 兼子と幾代とは、間接に依子の面倒を見てる瀬戸の伯父に、相談してみた。酒肥りの大ざっぱな瀬戸は、即座に賛成した。そして自ら進んで彼に説いた。彼は諾否の返答を与えなかった。然し皆にとっては、決答がないのは承諾と同じだった。
「私が内々向うの意向を探ってみましょう。」と幾代は云った。
 幾代が一人で出かけてくれたことは、彼にとって嬉しいことだった。然しそれに自ら気付くと、いつのまにか自分も茲まで引きずられてきたことが、驚いて顧みられた。
「一体お前自身は、そうしたいのかしたくないのか?」と彼は自ら反問してみた。何とも云えない嫌な気持ちになった。信じきってるような兼子の顔を見ると、狼狽の気持まで更につけ加わった。彼はふいと座を立った。書斎の机に坐ってみた。庭を歩いてみた。それから散歩に出てみた。然し遠くへは行かなかった。何だかしきりに気にかかった。家の前を何度も往き来した。或る坂塀の下の隙間から、可愛らしい仔猫が首を出して、彼の方を覗いていた。それを見て彼は、また家へはいっていった。
「お母さんはまだ?」と彼は尋ねた。
「はい、まだお帰りでございません。」と女中は答えた。
 母は家を出てから、四時間ばかり後に帰ってきた。その時彼は書斎にぼんやりしていた。玄関先の石疊みを踏む両刳《りょうぐり》の
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