なかった。そしてただまじまじと眼を見開いていた。頬の細そりした面長の顔が、薄暗い光りの中に浮きだして、静に枕の上に休らっていたが、底のない穴を思わせるような眼だけは、変に鋭く活《はたら》いていた。そして時々瞬きをした。それをじっと見ていると、瞬きの毎に怪しい惑わしが伝わってきた。彼ははっきり眼を覚しながら、そのまま白けた眠りに落ちた。
 其後も一度眼を覚して、なお眠らないでいる彼女の姿を見たような記憶を、彼は朝になって意識に浮べた。
 彼は木村博士を訪れた、幾代と兼子とには内密《ないしょ》で。然しその結果得たものは、所謂子宮内膜炎という病気には非常に多くの種類があること、兼子のそれは殆んど体質的ともいえるほどの慢性の軽微なものであること、そのままにしておいても健康に大した害は及ぼさないこと、但し不妊の恐れはあること、然し手術其他の手当の効果については確かな保証は出来ないこと、……要するに、兼子の口から聞いたことと大差なかった。
「医者としては、」と博士は云った、「一層のこと手術なさるようにお勧めしますが、然し嫌でしたら、それにも及びますまい。まあ時々、そうですね……年に二回ばかりも診察を受けられて、何か変化があったらその時のことにしても宜しいでしょう。終始外的治療を受けられるのも大変でしょうから。一体この、子供の少い痩せた……神経質な婦人を検査しますと、あれ位の病気は半数以上持ってるものです。それが多くは、一生気付かないで過してしまうのです。」
 彼は、医者としてよりも人としての博士の言に、信頼するの外はなかった。年に二回ばかりの診察を頼んで、病院の門を飛び出すと、急に明るみへ出たような呑気な気持になった。問題は彼の心の中で消えてしまった。彼は午前の日の光に充ちた街路を、ぶらりぶらり歩いていった。そして母と妻とへ、報告的な告げ方をした。
「まあ僕の気管支と同じ程度のものさ。」と彼は云った。「少し気をつけてさえいれば、身体の方はすっかり丈夫になるよ。心の向け方一つだ。」
 所が彼女等の心は、彼が思いも及ばない方へ向いていった。
 物に反射し易かった露わな兼子の神経は、憂欝な曇りのうちに沈み込んでいった。彼女は外出を嫌って家居を好むようになった。必要な用事があっても愚図ついていて、容易に出かけなかった。裏の花壇の手入れを女中に任せっきりで、常磐木の木影深い表庭を好むようになった。針仕事に対して、妙に執拗な熱中を現わすようになった。然し仕事そのものを愛しているのではなかった。平素着の仕立物などを外へ出すことを拒みながら、着物一枚を幾日もかかって弄ってることがあった。いろんな布《きれ》を膝の前に散らかし、針箱を引き寄せて坐ってる、そういう境地を愛してるらしかった。幾代の態度もまたそれを助長していた。身体を動かすような仕事を幾代は出来るだけ彼女にさせなくなった。その上いろんな細かい世話までやいた。魚屋《さかなや》が来ると自分で立って行くことさえあった。滋養の多いものを取って体力をつけさせること――そのくせ運動を少くさせながら――それが彼女の主義らしかった。そしてしまいには、二人で入湯の旅に出かけることを夢想しだした。夢想……に違いなかった。いつまでも実現出来なかったから。
 兼子が遊び半分に針を運んでる側で、幾代は彼から買って貰った種々の地図を拡げた。兼子も針を置いて覗き込んだ。そして二人で諸方の温泉を物色し初めた。やがては旅行案内記のようなものまで読み初めた。
「早くきめたらいいじゃありませんか。」と彼はよく云った。
「でもねえ、女ばかりの旅ですから……。」と幾代は答えた。
 彼は仕事の関係上長い旅は出来なかった。それで、往きと帰りとだけ伴をすることにしようといったが、初めから女だけの方がいいと幾代は答えた。そして彼女等は頭の中で、温い湯の湧き出る野や山の自然を、築き上げたり壊したりした。そういう感傷的な気分のうちに、二人の心は実の母と子とのように結ばれていった。彼はそれを喜んだ。二人の心が落付いたと思った。
 二人の心は実際落付いていた。然し、彼が夢にも思わなかったほどの深い所へ沈潜したのだった。二人は、依子を家に引取って育てたいといい出した。
 依子! その名前を今公然と持ち出されると、彼は一種の暗い壁にぶつかったような気がした。半ばは異性に対する好奇心から、半ばは本能的な肉慾から、何等の予想なしに設けた子であり、当時その存在に対して、愛着と憎悪とを投げかけた子であって、其後母親の手で育てられてるということを自ら責任回避の口実として、折にふれて気にかかりながらも、忘れるともなく忘れがちになっていた子だけに、その子のことを考えると、暗い影に心が蔽われた。彼は母と妻との申出に対して、諾否の返答が与えられなかった。そしてただ、二人の心持
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