「夢を見たのでしょう。」と幾代は云った。
 三人共それきり一言も云わなかった。また各自に床についた。
 依子の熱は翌日になってもさめなかった。朝が七度六分、午《ひる》が七度八分だった。そして少しも食慾がなかった。身体全体に力がなくて、顔色も失せていた。
 彼は小児科の医者に来て貰った。三時頃、医者はやって来て診察をした。依子はどう取扱われても、少しも逆らわなかった。逆らう力がなさそうだった。
 医者は診察を終えて小首を傾げながら、また長い間脉膊をみていた。病名が分らないらしかった。
「別に異状もないようですね。脉膊《プルス》がただ少し……。」
 彼は思い切って簡単に事情をうち明けた。依子を早く治すにはそうしなければならないような気がした。
「なるほど、」と医者は云った、「それで分りました。まあ神経衰弱とでもいうんでしょうね。別に悪い所はありませんから、そのうちには治るでしょう。」
「子供にも神経衰弱というのがありますんですか。」と彼は尋ねた。
「はははは、神経がある以上はあってもいい訳ですね。……大したことではありませんけれども、もし熱が八度を越したりしたら、また仰言って下さい、診《み》てみますから。」
 医者は型ばかりの処法を与えて帰っていった。
 彼はじっと両腕を組んだ。神経衰弱というのを聞いて、他の病気だったのよりも更に恐ろしい気がした。依子の身体のためにではなく、その魂のためにであった。凡てを驚異しつつ凡てを取り入れてゆく、快活な晴れやかな四五歳の子供に、神経衰弱とは余りに滑稽な病気だった。而もその滑稽が、依子に於ては滑稽でない事実であるという所に、絶望的なものが潜んでいた。彼は敏子に来て貰おうかと思った。然しさすがに云い出しかねた。
 その上、依子の病気は幸にもよくなっていった。熱が次第に薄らぎ、食慾もついてきた。幻を見ることもないらしかった。ただ元気は少しも回復しなかった。いつも室の隅っこにぼんやりしていた。兼子はそれを室の真中へ抱いてきた。彼はそれを負って庭を歩いた。然しいつのまにか、依子はまた片隅に縮こまっていた。何物にも逆らわなかった。何物にも冷淡だった。
「こんなでどうなるんでしょう。」と兼子は云った。
 木きな不安が兼子の心を蔽いつつあるのを、彼ははっきり見て取った。然し彼自身もいつしかその中に巻き込まれていった。依子のことを彼女と話すのが苦しくなってきた。
 彼はなるべく兼子の眼付がない隙《すき》を窺って、依子の側へ寄っていった。そして膝の上に抱いてやった。依子はじっと抱かれていた。然し彼が頬ずりをしたり頭を撫でたりすると、「いやよ、いやよ!」と云った。
 この子は深い愛撫には堪えないのか、もしくはそれを嫌いなのか? と彼は考えて見た。然し、何れとも分らなかった。彼がぼんやりと考えていると、依子はじろじろ彼の様子を眺め初めた。彼はそれを気付いて、そっと向うを見返した。依子は俄に立って来て、黙って彼の膝に乗った。然し彼にはもう抱きしめるだけの気が起らなかった。嫌な気さえした。「お母様に抱っこしていらっしゃい。」と彼は云った。
 依子は素直に兼子の方へ行った。暫くして彼が覗いてみると、二人は少し離れて坐っていた。依子はむっつりしていた。兼子は冷かな横目で、時々その方を見やっていた。しまいには兼子は涙をぽろりと落した。そして依子を抱いたが、すぐにまた下に置いて、ぷいと立っていった。
 そこへ――依子を引取ってから二十日ばかりの後に、敏子から幾代宛の手紙が来た。幾代は眼を濡ませながら、それを彼の所へ持って来た。彼は読んだ。

 私事、この度広島へ行くことに致しました。依子さんのことをお頼み致します。昨日瀬戸様へお目にかかりまして、無事に皆様からかあいがっていただいていることを承りまして、涙が出るほどうれしく存じました。永井が私へいろいろいやなことをすすめますけれど、私はだんじてそんな悪いことを致したくはございません。広島にいとこがございますので、相談致しますと、すぐ来いといってきました。手びろく乾物屋を致して居ります。今晩たつことに致しました。一度お伺いしたいと存じましたが、依子さんのために悪いと思いまして、このままたちます。もし永井が参りまして、何かと申しましても、何にも知らないとおっしゃって、相手になって下さいますな。お願い致します。依子さんのことをお頼み致します。お身体御大切にあそばしませ。皆々様へよろしく申上げます。御恩のほど一生わすれは致しません。広島からお手紙を差上げてもよろしゅうございましょうか。皆々様御身体御大切に御願い致します。

 彼は涙が出て来るのを、じっと我慢した。兼子が何か云おうとするのを押し止めた。依子がこちらを見ていたからであった。彼は依子の目と耳とを恐れた。
 依子は向うの隅
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