た。――依子は夜中によく眼を覚した。もう泣き出しはしなかったが、ただじっと眼を見開いていた。幾代はその間おちおち眠れなかった。しまいには依子の眼付に慴えてきた。
或る晩、幾代は突然起き出て来て「兼子さん、早く早く!」と襖の外から呼び立てた。兼子はもう眠っていたが、彼は変な気持ちで夢想に耽っていた。幾代の声を聞いてすぐに飛び起きた。傍の兼子を揺り起しながら駈けて行った。幾代の室へはいると、彼はぞっとした。幾代はいつも電気に二重の絹覆いをして寝るのであった。その薄ぼんやりした光り――というよりは寧ろ明るみの中に、依子が惘然とつっ立っていた。眼だけを大きく見開いて、没表情な硬ばった顔付だった。彼は一寸躊躇した。それから猛然――そう自ら意識した勢で、側に走り寄った。そうして依子を捉えようとすると、依子はその手を異常な力で押しのけた。其処へ兼子と幾代とが後れてやって来た。兼子が進み出た。依子はそれを押しのけた。兼子は危く倒れようとした。彼が代って掴みかかった。依子はそれをくるりとくぐりぬけて、室の隅にぴったり身を寄せた。向う向きになって、突然大声に泣き出した。彼はそれを背後から捉えた。身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]くのを無理に押えつけて、布団の上に寝かした。すると依子はぐったりと身を投げ出して、泣き止んだまま黙ってしまった。三人はその周囲に立ち並んだ。三人共初めから一言も発しないでいた。息を凝したような沈黙が落ちた。彼はそれに気付いて俄に恐ろしくなった。殆んど機械的に電気の覆いを取った。ぱっと明るくなった。彼は云った。
「どうしたんです!」
同時に兼子も云った。
「どうしたんでしょう?」
幾代は長くつめていた息をほっと吐き出して、依子の方を覗き込んだ。――幾代自身も事の起りを知らなかった。彼女がふと眼を覚すと、依子はもう上半身を起こして室の隅を見つめていた。彼女はその肩に手を置いて何か云おうとした。そしてはっとした。石にでも触れたような感じを受けた。次にその眼付を見た時、彼女は堪らなくなって飛び起きたのだった、兼子を呼びに。
見ると、依子は眼をつぶっていた。険しい息使いをしていた。顔がぼーっと赤くなっていた。兼子はその上に屈んで、額に手をあててみた。そして声を立てた。彼も手をあててみた。額が焼けるように熱かった。揺り起すと、依子はぼんやり見廻したが、また大儀そうに眼瞼を閉じた。
病気に違いなかった。そう思うと、急激な病気に違いないという不安が高まった。彼は検温器を持って来て測った。熟は案外にも八度三分に過ぎなかった。念のためにも一度測ったが、やはり同じだった。険しい息使いももう静まっていた。ただ脈が非常に速かった。そして全体がぐったりしていた。
彼と兼子とは着物に着換えてきた。そして枕頭についていた。いつまでたっても、依子はすやすや眠ってるらしかった。起きていても仕方がなかった。依子の三方に床を敷いた。裾の方に幾代が寝、彼と兼子とが左右に寝た。
彼はどうしても眠れなかった。眠れないと意識すればするほど、益々眼が冴えてきた。無理につぶった眼を開くと、兼子がじっとこちらを見ていた。二人の間には少し下手寄りに、依子の房々としたお河童《かっぱ》さんが、夜着の白い襟から覗いていた。彼は眼を閉じた。暫くして眼を開くと、兼子がまたこちらを見ていた。然し瞬間に彼女は眼瞼を閉じた。彼はその顔を見つめた。淡い電気の光りを受けた顔は、蝋のようにだだ白くて艶がなかった。一種の陰影が眼の凹みと口元とに深く湛えて、細そりとした頬をすっと掠めていた。高い鼻筋と細い眉とが、淋しいほど清らかだった。乾いた薄い唇が、色褪せてきっと結ばれていた。彼はそういう顔を、今初めて見るかのようにじっと見つめた。彼女は彼の視線を感じてか、静かに寝返りをした。彼は眼瞼を閉じた。
眼瞼のうちに、種々なものがまざまざと見えてきた。兼子のこと、依子のこと、幾代のこと、敏子のこと、また自分自身のこと――彼も亦今見た兼子の顔と同じように、窶《やつ》れた淋しい顔をしてるに違いなかった。彼はそれらの映像を眼瞼のうちに見つめながら、果してこれでいいのかと考えた。皆の生涯を――運命を、よいようにと希望しながら、茲まではまり込んでしまったのだ。然しこれは一時の経路なのだ、これを通り越せば凡てよくなるだろう、と彼は考えてみた。それには先ず第一に、依子の病気を治さなければならなかった。
彼はそっと手を伸して、依子の額に触ってみた。所がその触感を知る前に、彼はぎくりとした。依子がぱっちり眼を見開いた。依子は天井を見つめていたが、俄に叫びだした。
「お母ちゃん、お母ちゃん!」
彼と兼子とは突嗟に起き上った。幾代も起き上った。然しその時にはもう、依子は眼を閉じてうとうとしていた
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