ば進むるほど、その面影は同じ程度に遠退《とおの》いて、常にぼんやりした距離に立って居た。
 馬鹿! と彼は自ら自分に浴せかけた。依子の一生の運命に関することだ。そう考え直してみた。然し問題は既に決定されていた。それが最善の途らしかった。何の気もなく偶然兼子に述べた言葉だけが、更に深く掘り進められていった。依子は戸籍上私生児となってることを、彼は考えた。私生児が世の中で如何なる待遇を受けるか、それを彼は想像した。庶子の認知をして家に引取り、そして兼子と二人で愛してやったら、それは依子の生涯に光明を与えることに違いなかった。そうすれば敏子とても、一生世に埋もれずに済む、少なくもも自由な道が歩けるだろう。それで自分の過去は晴々となるのだ。罪の購いなのだ。而もそれによって、兼子の生活まで救われるだろう。女には良人以外にも一つ、生活の頼りとなるべき人形が必要である。その人形は、普通の女にとっては子供なのだ。兼子に子供を与えることは、彼女の寂寞たる生活を救うかも知れない。そうだ。彼女がその子供を愛しさえすれば……。
 彼は執拗に兼子の眼色を窺った。その眼は少しも濁っていなかった。
「お前は、」と彼は云った、「後悔するようなことになるだろうとは、少しも思っていないのか。」
「ええ。なぜ?」
「自分の児でなければ子供なんか寧ろない方がいいとか、または、依子よりも寧ろ他人の子供を養子にした方がよかったとか、そんな気持ちになりそうな不安は、少しも感じないんだね?」
「ええ、ちっとも。私ただあの子を育てたいんですわ。」
「なぜ?」と此度は彼の方で反問した。
 彼女の答えは簡単だった。
「あの子なら、全く他人ではありませんから。」
「だからなおいけなくはないかしら。」
「いいえ。私はもう昔のことは何とも思っていませんの。結婚前のことですもの。……あなたが本当に私を愛して下さるなら、私の心も分って下さる筈ですわ。」
「それほどお前は本当に思い込んでるのかい。」
「え、何を?」
 何をだかは、尋ねた彼にも説明出来なかった。ただ心から信じての上でさえあれば、それでよかった。
「私はただ、」と兼子は眼を伏せて云った、「あの方《かた》に気の毒な気がしますけど、そのうめ合せには、あの子を倍も愛してあげるつもりですわ。」
 彼は無言のまま兼子の手を握りしめた。そして、その後ですぐ自責の念が萠してきた。何とかかとか其場々々は理論で押しつくろいながら、結局は依子を引取る理由を更に裏書きする言葉を、兼子の口から引出したがっていたのではないか。ちっぽけな利己的な偽善だ。……とは云え、公平な心で考えても、依子を引取るのが自然で正常であるように思われた。そうしたいという欲求は、彼の頭の中に深く根を下していた。誰に遠慮がいるものか! 彼は運命という名に固執した。区々たる一時の感情を捨てて、一生を通ずる大きな運命というものをのみ見ようとした。依子、敏子、兼子、自分、凡ての者の運命がそれによってよりよくなされる。そう彼は考えた。愛は誰か一人を護ることではなくて、凡ての者の運命を正しくなすことだ!
 彼は早くその日が来るのを待った。じりじりした日を送った。然し敏子からは何とも返事がなかった。幾代も別に催促に行く風もなかった。兼子も落付き払っていた。そして彼女等は、温泉旅行の夢想を捨てて、新らしい夢想を描き出していた。子供を中心にして、種々な計画がめぐらされた。先ず第一は玩具であった。珍らしい玩具が沢山物色せられた。それも実際玩具屋に行って見て来た物でなくて、彼女等の頭でありそうに想像された物だった。中には座敷の中で火をたいて湯が沸せるような、小さな世帯道具まであった。「火を弄《いじ》らせるのは危ないから止しましょう、」と幾代は云った。第二は遊覧場所だった。公園、動物園、植物園、観音様、郊外の野原……地図の上に赤鉛筆で印がつけられた。活動や寄席は小さな子にはどうだろうか、それが問題として残っていた。第三には着物のことだった。余り贅沢をさせてはいけないということに、二人の意見は一致した。けれど地色や柄は、子供の顔立に似合うものでなければならなかった。それには肝腎の顔立がよく分らなかった。幾代は子供を見た時の印象を、出来るだけ細かく思い浮べようとした……。
「そんな計画ばかりしてどうするんです?」と彼は云った。
「でもねえ、前からきめて置きませんと……。」と幾代は答えた。
「然しまだ返事がないじゃありませんか。もし断ってきたらどうします?」
「そんな筈はありませんよ。」
「もう約束の四五日になっていますよ。」
「それは約束は約束ですけれど、向うだってそう急にはきめかねるでしょうよ。少しは向うの身になっても考えてやりませんではね。猫の仔一匹やりとりするのでも……。」
「犬猫の仔とは違います!
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