聞きながら彼は、話の内容には余り気も止めずに、敏子――昔のとし[#「とし」に傍点]――と依子との生活を想像に浮べていた。あの時別れて以来、彼は二人に逢ったことがなかった。厳格な父の怒りに觸れて以来、彼の耳には二人の消息は更に達しなかった。ただ何かの折に、二人が三田に住んでることを一寸耳にしたので、入り組んだ小路をやたらに彷徨したことがあった。然し敏子らしい姿は一度も見かけなかった。そして疲憊しつくした彼の眼には、慶応義塾の美しい図書館の姿が、暮れ悩んだ空を景色にして、くっきりと残ったのみであった。それから、彼は凡てを過去に埋める気で忘れるともなく忘れていった。父の死後、瀬戸の伯父から二人の様子を、ちらと匂わせられるような機会が、よほど多くはなったけれど、その時はもう彼の生活は可なり前方に押し進んでいた。彼は兼子と結婚し、兼子を愛した。過去の罪をふり返ることは、更に罪を重ねることのように思われた。兼子は彼を許してくれた。彼も自ら自分を許した。そして今突然――幾代と兼子との申出でから半月ばかりたってはいたが、彼にとっては非常に突然の感があった――今突然、敏子と依子とが彼の前に立ち現われてきたのだった。
「どうしても子供を引取らなければいけないのですか。」と彼は云ってみた。
「まあ、何を云うのです?」と幾代は驚いた眼を見張った。「引取らなければいけないというのではありません。引取る方が万事都合よいから、こちらから向うへ相談に行ったのではありませんか。あなたは一度承知しておいて、今になって不服なんですか。」
 さすがに彼も、承知した覚えがないとはいい得なかった。ただ自ら進んで相談に与らなかったまでだ。いいとも悪いとも言明しなかったまでだ。そして、今後の兼子の心をばかり気遣っていたのであった。
「だけど、考えてみると、」と幾代は云い続けた、「気の毒のようでもありますね。あれまで手許で育てたのを、無理に引き離すんですから。」
「お話の模様では、いい子のようでございますね。」と兼子は云った。
「ええ、おとなしそうな可変いい子でしたよ。言葉も上品ですし、よほど注意して育てたものと見えます。家の子だとしても恥しくはありますまい。」
「私済まない気がしますわ。」
「それもそうですけれどね……。」
「それが人間としての本当の気持ちだ!」と彼は思わず叫んだ。
 兼子は頭を垂れて唇をかんだ。彼はじっとしてるのが苦しくなった。坐ってる膝頭をやけに揺ぶった。変に気持ちがねじれてゆきそうだった。
 二人きりになった時、兼子は彼の腕に縋りついてきた。
「どうしたら宜しいでしょう?」
「どうしたらって、今になって仕方はないじゃないか。今更向うへ取消すわけにもゆくまいから。」
 そう云いながら彼は、何を云うんだ、何を云うんだ! と自ら心の中でくり返した。それでも彼は、先刻母へ向ってあんなことを云った同じ口で兼子を説得しようとしていた。
「兎に角、そうした方がいいかも知れない、もう茲まできてしまったんだから。子供も、一生父なし子で暮すよりは、公然と家で育った方が幸福だろう。その幸福は、凡てをよくなしてくれるかも知れない。たとい一時はつらくっても、母親は、それを喜ぶに違いない。そして、お前とお母さんとは、いい出した本人じゃないか。あの子を実の子のように愛してさえくれたら……愛することによってお前の生活が、晴々としたものに、そうだ、晴々となったら、僕はどんなに嬉しいか知れない。僕にはあの子を愛せられないかも分らないけれど……。」
「あなた!」と兼子は云った。
「僕は元来子供は嫌いなんだ。然し一緒に暮してると好きになるかも知れない。当然憎むべきお前でさえ、あの子を愛すると云うんだから……。僕は心からお前に感謝してる。お前があの子を愛してくれるのは、僕の過去の罪を二重に浄めることなんだ。而もそれによって、お前自身の生活にも張りが出来てきて、陰欝でなくなるとすれば……。」
 彼はふと口を噤んだ。自分でも、本当のことを云ってるのか嘘を云ってるのか、分らなくなってしまった。偽善者め! と嘲る声と、痛切な感激の声とが、同時に心の中に響いていた。
 俺はやはり子供を引取りたいのだ! 彼は其処まで掘りあてると頭を一つがんと殴られたような気がした。五年間父親から無視された小さな存在、眼の大きいお河童さんの子、膝を揃えてお辞儀をした子、はにかんで畳につっ伏した子、言葉の上品なおとなしい子、……その上種々のものが眼に見えてきた、小さな手、貝殼のような爪、柔い頬、香ばしい息、真白い細かい歯並、澄んだ真黒な瞳。――誰に似てるのかしら? 彼は敏子の面影を思い起そうとした。然しただ、肉感的な肉体だけしか頭に浮ばなかった。ともすれば、面長な首の細い兼子の姿が、一緒に混同されがちだった。記憶を押し進むれ
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